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「妖怪古意:言語と民俗との関係」柳田國男

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 東北の名物は算えきれぬほどあるが、特に言語の側から考えてみるによいのは、秋田沿海部のナマハギなどが主たるものであろう。昔の年越の節であった旧正月十四日の夜深に、村の青年の中から選抜せられた者が、蓑笠で姿を隠し、怖ろしい面を被って鍬と庖丁とを手に持ち、何か木箱ようの物をからからと鳴らしつつ、家々に入って来て主人と問答する。小児等がこれを懼るることは鬼神に対すると同じであるが、成人の男子は曾つて自分もこれに扮したことのある者が多い故に、単に厳粛なる一つの儀式としてこれを視ている。南太平洋の多くの島々で、Duk-duk その他の名を以て知られている神秘行事と、細かく比較をして見なければならぬ重要現象の一つであるが、その点は他にも発表したものがあるから今は説かない。ここにはただその名称の由って来たる所、言葉がどの程度にまで人間の心の動きを、永い後の世に痕づけているかということを、この尋常で無い事実に沿うて、考えて行こうとするだけである。

 ナマハギは現在もなお行なわれている。秋田では通例生剝の字をこれに宛てて、ナマハゲと呼んでいる者が多く、また八郎潟の西岸の村々、男鹿の神山の麓の里ばかりに、限られたる風習の如く思っている人もある。その推断の共に誤りであることは、比較に由って追々に明かになって来るのである。ナマハゲという語の意味は、土地のこれに携わる人々にも、もう説明が出来なくなっているが、僅か前まではナモミハギといっていたことは、今なお次のような唱えごとを口にしつつ、その生剝が遣って来るのを見てもわかる。
  ナモミコ剝げたか剝げたかよ 庖丁コ磨げたか磨げたかよ あづきコ煮えたか煮えたかよ
 同じ県の河辺郡戸米川村女米木めめき、又は由利郡大正寺村などにも、同じ行事があって現にこれをナモミハギといっている。そのナモミは「秋田方言」によれば、火斑ひがた即ち長く久しく火にあたっている者の、皮膚に生ずる斑紋のことで、由利郡でそういうとあるが、他の郡にも無い語ではあるまい。ヒガタは国語辞典などには全く出て居ないが、東京でも知られている語であり、又ヒダコともアマメともいって通ずる。一言でいうならば働かぬ者の看板である。それをこの年の夜の怖ろしい訪問者が、庖丁を磨ぎすまして身から剝ぎ取り、小豆と一しょに煮て食ってしまおうというのが、右の唱えごとの出来た時の趣意であった。これにも若干の演戯性を含んでいるが、とにかくに以前は小さな子供ばかりを、嚇かそうとしていたので無いことは想像し得られる。

 右のナモミが野草の名の、オナモミ・メナモミと関係があるらしいことは、夙く折口君などがこれを説いた。関係はあるかも知らぬが少なくとも直接では無く、又今はまだ少しも証跡が無い。火斑のナモミは北部の地に行くと、mがgに変ってナゴメとなっている。青森県の西津軽郡では、やはり小正月に同じ行事があって、これをナゴメタグレ、もしくはシカダハギというそうである。シカダは火斑のことでナゴメも同じもの、タクルという動詞は捲き起すことで、剝ぐというよりも一段と適切に、惰け者の皮をむく意味をよく表現している。
 これと殆ど同一の語は、又太平洋の側面にも行われている。例えば岩手県下閉伊郡の岩泉地方では、ナモミは火斑を意味し又ナモミタクリの行事もある。これも正月十四日の晩に、蓑に手甲蒲脛巾雪靴という装束で、面を被って家々を巡るのがナモミタクリであり、その仮面をナモミメンと呼んでいる。九戸郡久慈町でも小正月の天ナガミという者が遣って来るが、これは子供の行事であってホロロ・ホロロと唱えつつ家々を訪れて餅を乞うばかりで、そのナガミを剝ぎ又はタクルということは言わない。この地方的の変化も私たちには意外では無い。成人の忘れた多くの儀式を、引継いで保管する者はいつも児童であったからである。
 同じ岩手県でも上閉伊の釜石附近では、右の小正月の訪問をナナミタクリといい、これが大ナナミと小ナナミとの二種に分れていた。小ナナミは前の久慈地方のナガミの如く、少年たちの餅をもらいあるく行事であり、大ナナミは男鹿のナマハギと似ていた。神楽面の中の成るべく怖ろしいのを被り、腰には注連縄を蓑に巻いて、家々にあばれ込むのは若者団の役目であった。このナナミタクリと秋田のナモミ剝ぎと同じ語であることは、比較によって全く疑いが無いのである。嶺を一つ隔てた遠野の盆地などは、この名がもう無くなって同じ行事だけがある。箱に何かを入れてからからと鳴らして来る代りに、ここでは小刀を瓢の中に入れて、打振って村中をあるくということである。それをモコ又はモウコという者もあるが、本当の名はヒカタタクリであった。惰けて火にばかりあたっているような者を、ひどい目に遭わそうということは中世以後の風であろうが、いつの間にかこれほど広く、互いに相知らぬ土地まで行き渡っていたのである。

 だから今後の採集によって、なお他の地方からも似た例が出ることと思っている。能登の鹿島郡などでは、除夜の晩はアマメハギという者が来て、足の皮を剝いで行くからといって、子供たちを早く寝かせる習わしがある。勿論半ば以上戯れであろうが、嘗てこの地方にも火斑を剝ぐと称して、年越の夕に訪れた者があった痕跡には相違ない。アマメというのがまた秋田などのナモミのことだからである。同じ半島も西海岸の皆月あたりへ行くと現にまだ一部分にはこの行事が活きている。それは正月の六日年越の夜、青年等天狗の面を被り、素袍を着て御幣を手に持ち、従者三人槌や擂小木を手に携えて、家々を巡って餅を貰ってあるくというのが、以前のアマメハギの残形であろうかと思われる。これと同種の行事ならば、昔の年越であった小正月の宵にも、中国四国その他の田舎で、今なお到る処の村に行われている。ただその名称が奥羽のものと別なので、簡明に系統の同一を証し得ない迄である。甲州の平野の村々で道祖神祭といったのも、装束はこれとよく似ていたが主として新婚の家を訪い、嫁聟をいじめて酒食の料を徴発することに力を注いだ。越後の出雲崎などは獅子の面を被って来る為に、普通これを獅子舞とは呼んでいるが、やはり法螺貝などを吹き怖ろしい様子をして押しあるくので、小児がこれを見て閉息することは、秋田のナマハギや閉伊のモウコも同じであった。近年弊害があるので面だけは警察で禁じたといっている。そうすれば終には普通の獅子舞と同じものになってしまうだろうが、その獅子舞すらも子供たちには元はこわかった。獅子舞に噛んでもらうと悪い所が治るといって、悪戯をする私たちは屡々手をその口の中へ入れられた。その日は年越の宵ではなかったけれども、これなども曾てはナマハギと同じ趣旨を以て、自分等の郷里の方を廻っていた名残では無いかと思う。

 私は前に岩手県の海沿いを旅していた際に、閉伊の大槌の宿舎に於て詳しくあの土地のナゴミタクリの話を聴いた。ここではこの小正月の訪問者を、モウコ、ガンボウ又はナゴミタクリといっていた。モウコもガンボウも共に畏ろしいものを意味している。ナゴミというのは何の事ですかと、知らぬ顔をして私は尋ねて見た。そうすると宿の主人の年四十余なる者が、きまじめにやはり妖怪のことでござりましょう。この辺ではナゴミは怖いものだと思って居ますと答えた。火斑ある皮をタクリに来るということは、もうあの土地では言わなくなっていたのである。土地で忘れたということは、その単語のやや古いということを意味するだけで必ずしも独立の解釈を支持する力にはならない。モウコ又はモコという名称なども、近頃文字を解する者はほぼ一致して蒙古のことだというようになっているが、それは弘安の役などの歴史知識が、普及せぬ以前には考えられそうにも無く、たまたまそういう説を立てても記憶せられそうにも思えぬから、起原のよほど新しいものとみることができる。しかも一方には彼が人間の火斑を剝ぎに来るということも今こそこのように弘く言い伝えられているけれども、又決して最初からあった信仰では無く、寧ろこの行事が幾分か形式化して、人がその言動に劇的の興味を、少しずつ抱き始めてから後の話と思われるから事によるとその今一つ以前の名が、モコ又はモウコであったかも知れぬのである。仮にそうだとすると、こんな小さな一語でもやはりその起りを尋ねて見なければならない。それをしなければその又以前の事を考えてみる足場が無くなるからである。

 所謂モクリコクリの名称は、かなり夙くから中央の文献にも見え、これをお化けのことのように、思っていた子供も少なくはなかった。それが暗々裡に東北の蒙古説を誘発したまでは意外とも言えない。われわれの不思議とするのは、寧ろこの善意なる初春の訪問者が、そういう異国の兇賊の名と解せられて、何人もこれを否認せぬ時代まで、なお以前からの外形と言葉とを、ほぼもとの儘で持ち続けていたことである。妖怪そのものに対する日本人の観念が、極めて目立たずに少しずつ変っていたのである。そうしてその過程を明かにする手段が、今ではもうこの二つの幽かなる痕跡以外に、われわれの為に残されては居らぬのである。単なる学者の心軽い思い付きが、多数の信奉者を混乱させた例は、この方面にはまだ幾らもある。たとえば嬉遊笑覧その他の随筆に引用せられているガゴゼ元興寺説なども、これを首唱した梅村載筆の筆者などには、格別の研究があったわけでも無いが、誰でもこれを聴いた人は覚えて居て、一生に二度や三度は少年等に言ってきかせる。昔大和の元興寺の鐘楼に鬼が居て、道場法師という大力僧に退治せられたことが霊異記にある。それ故に妖怪をガゴゼというのだというのは、ちょうど陸中などのモウコと同じく、もしもこの時始めてばけ物が日本に生じたというのでなければ、これに命名し又改名するのが、学者物識りの役目であったことを意味するもので、二つながらわれわれの想像し得ないことである。これは要するにそうでは無いようですと言い得る者の、一人も居り合わさなかった席上の説であった。言葉はそれを使用する者の地に立って考えて見なければ、少なくともその起りを知ることは出来ない。そうしてモウコは又婦女児童の語であったのである。

 遠い昔の世のことは、私たちにはまだ明瞭には知れて居ない。人が老幼男女を通じて、一様に眼に見えぬ神霊を畏れていた時代には、多分はモノという総称があったろうということになっている。沖縄には今なおマジモノという語が行われ、又バケモノという語も内地には出来て遺っている。しかし実際にこれを怖がっている者の間には、別にそれよりも一段と適切なる語が、新らたに生れて来るのが自然であり、又必要なことでもあった。ガゴやモウコという語は現在の使用階級に取っては、必ずしも簡単に過ぎもせず、又余りに幼稚でもなかった。そうして日本のかなり広い地域に亘って、今でもまだ活きて働いているのである。
 前にも一度書いたことがあるから、ここにはただ分布のざっとした色分けを述べてみよう。所謂化物を意味する児童語は、大体に全国を三つに分け、それも少しずつ改まって来たようである。最近の実状によって言えば、モウコの方言区域は東北六県よりも大分広い。岩手秋田の二県はこの頃は寧ろモッコが多く、外南部ではアモコとさえいっているが、山形県各郡はほぼ一円にモウ又はモウコである。それから仙台でも元はモウカ、福島県でも岩瀬郡などはマモウだから、僅かな変化を以てこのあたり迄は来ているのである。日本海の側では越後にモカ、出雲崎の附近は既にモモッコで、それが富山県の北部までは及んでいる。石川県に於ても金澤はモウカ、能登はモウがあり又モンモウがある。蒙古の一説を以て総括することは出来なくとも、これを別個の発生とみることは先ずむつかしかろう。
 次に信州では長野の周囲からはまだ聴き出さぬが、犀川上流の盆地ではモッカもしくはモモカ、天龍水域ではモンモが行われ、甲州もまたモンモであるという。静岡県では内田武志君の方言新集に、静岡市以西は大体にモーン又はモーンコ、東部には一部にモーモーというのがあるが、主として行われるのはモモンガーもしくはモモンジーであって、偶然にモモンガも同一系統の語であったことを確かめ得たのである。

 さて妖怪を何故にモウといい始めたかについては、たわいも無いような話だが私の実験がある。曾て多くの青年のいる席で試みにオバケは何と鳴くかと尋ねて見たことがある。東京の児童等は全くこれを知らない。だから戯れに仲間を嚇そうとする場合に、妙な手つきをしてオバーケーといい、もしくはわざとケーを濁っていうこともある。つまり我名を成るたけこわそうに名乗るのである。ところが或る信州の若者はこの問に対して、簡明にモウと鳴きますと答えた。丸で牛のようだなというと、他に鳴きようがあろうとは思わなかったといった。それから気をつけているのに、子供がモウと唸って化物の真似をしているのを折々みる。これは誰でも試みることのできる実験で、もし東北のモウコが他の声で鳴くという例が幾つか現われたら、私の推定は覆ることになるのだが、私だけはこれが鳴き声というのもおかしいが彼の自らを表示する声から、そのまま附与せられた名称であって、犬をワンワンといったのと同じ態度だと思っている。
 そのワンワンを又化物の名としている地方がある。たとえば筑前の博多ではオバケの小児語がワンワン、同じく嘉穂郡ではバンバン、肥後玉名郡でもワワン、薩摩でも別にガモという語はあるが、小児に対してはワンを用い「ワンが来ッど」などといって嚇すそうである。こういう土地でも実験は容易にできる。もし化物がワンといって現れるのでなかったら、こういう名称は新らたに生れることは出来なかったろう。従って歴史を奈良朝に托せんとしているガゴゼなども、一応はやはり彼が出現の合図の声に拠って、起ったものと見て置いてその当否を究むべきである。ガゴゼは自分等の郷里播磨などで、以前はそういったということであるが、近世はもう無くなっている。京都でも文献には見えて今はそうで無く、本元と言わるる北大和も唯ガンゴである。但しこのゼという接尾辞は、東北のコなどとは違って、偶然に附着したものでは無いように思われる。四国では阿波が一般にガゴジ又はガンゴジであり、伊予にはガンゴといい又ガガモもあるが、周桑郡の児童語には鬼をガンゴチというのがある。それからずっと飛び離れて、関東の方でも水戸附近がガンゴジ又はガンゴチ、これと隣接した下野芳賀郡もガンゴジーである。理由の無い附会にもせよ、元興寺説の起ったのは、始めはこれに似よった音を以て、呼ばれていたことを推測せしめる。

 化物をガゴ又はこれと近い音で呼ぶ区域は、殆ど完全に前に掲げたモウコ区域と隔絶している。たった一つの例外らしく見えるのは越中であるが、これとても多分は対立であって、一地の二つの言い方が併存しているのでは無かろうと思う。そうしてこの地方は雀、蟷螂又蝸牛の方言でも見られる様に、不思議に異種の語の入り交じっている処である。大田君の富山近在方言集によれば、幼児を嚇す語に「泣くとモーモに噛ましてやるぞ」というとあるが、それは新川郡の平野でのことらしく、五箇の山村では別に子供を威すのにガーゴンという語がある。即ちこの県の奥地だけに、ほぼ独立してこの系統の分布をみるのである。それから又ずっと飛び離れて、関東では常野境上のガンコジがあり、その南に継いで新治稲敷等の諸郡のゴッコがある。これがどの位の版図を持つかはまだ調べられて居らぬが、とにかくに現在はそう広く及んでは居ないようである。注意すべき類似は却って遠方にある。即ち山口県では山口も下ノ関も、共に鬼やおばけがゴンゴであった。石見ではこれをゴンという児童もあるが、別にゴンゴヂー又はゴンゴジーというのも怖ろしい人又はモノのことだから、つまりこの地方と常陸の一角とは一致しているのである。そうして此方は九州の北部、及び四国島の北東二面とも接続している。阿波のガゴジのことは既に述べた。讃岐はまだ当って見ないが、伊予にもガンゴチがあり、又喜多郡などはガンゴであって、ただその南の宇治四郡だけが、第三のガガモ系に属している。九州の方では筑前のバンバンなどがあるが、それを飛び越えて肥前は佐賀藤津の二群がガンゴ又はガンゴウ、対馬でも同上、肥後は南端の球磨郡がガゴウで、嶺を越えて日向の椎葉村がガゴもしくはガンゴ、大分県にもまた処々にガンコがある。起原が一つでなかったならば、これまでの弘い一致は現われまいと思う。

一〇

 そこでなおこの序に問題とすべきことは、これと東日本一帯のモウコ乃至はモモンガと、丸々縁無しに別々に生れたか否かであるが、私はやはり始めは一つだと思っている。これも当然に実験から入って行くべきであるが、恐らくは化物はそういう声を発するものと、思っている子供又は子供らしい人が、今でも機会ある毎に見出し得られると思う。それがもし違っていたら、乃ち私の仮定は覆るのだが、そんな心配は先ず無さそうである。現在のおばけを意味する方言には、別に第三種のgmの二音を組み合せたものがあって、その分布の状態は一段と広汎であり、しかもこれを調理する母音の傾向が、かなり顕著に前二者と共通している。これを両者の中間に置いて考えると、変化の道筋は大よそ判って来るように思われるからである。少し事々しいが他日追加の便宜の為に、表にして置くことを許されたい。私の手帖に抜き出してあるのは、今のところ次の十余例に過ぎぬが、これは追々に増加する見込がある。

  鹿児島県   ガモ、ガモジン(ガゴ)   長崎市   ガモジョ(アモジョ)
  出雲   ガガマ   伯耆東伯郡   ガガマ
  加賀河北郡   ガガモ(モウカ)   飛騨一円   ガガモ
  備後福山   ガモージー   伊予喜多郡   ガガモ(ガンゴ)
  同西宇和郡   ゴガモウ   紀州熊野   ガモチ
  伊勢宇治山田   ガモシ    

 右の諸例の中で備後や長崎の如く、語尾に元興寺と同様の一音節を添えてあるものの多いのは、私には意味のあることに思える。われわれのオバケは口を大きく開けて、中世の口語体に「咬もうぞ」といいつつ出現した時代があったらしいのである。その声を少しでもより怖ろしくする為には、我邦ではkをg音に発しかえる必要があり、又折としてはそのg音をままなく(吃る)必要もあったかと思われる。それが今日のガモ又はガガモの元だということは、昔を考えて見れば必ずしも無理な想像では無い。私などの幼ない頃の言葉では、妖怪はバケモンであり又ガゴゼであったが、なお昔話中の化物だけは、やや古風に「取ってかも」といいつつ現われた。カムという言葉が端的に、咬んでむしゃむしゃと食べてしまうことを意味したのである。その用法は南の島にはまだ残っている。これが嚥下の動作までを包含せぬ動詞となって後も、なお努めて日常の「食う」とか「たべる」とかいう語と、差別した語を使おうとしたことは、関東でよく聞く蚊がクウや、犬がクライツクなどと異曲同工と言ってよかろう。

一一

 鳥や獣のような言語の丸でちがったものの声でも、われわれは何かこちらの言葉で物を言っているように聴こうとした。梟は糊つけ乾せ、画眉鳥は一筆啓上仕り候というように解せられていた。まして化物は人間の幻しを以てこしらえたもの、それが最初から意味の無い声を出して来る筈はなかったと思う。しかも彼等の要求は、以前はそう過大又複雑なものでなかったのが面白い。「かもう」は多分猛獣などの真似で、実際にその意図があったので無く、やはり「小豆が煮えたか」と同様に、相手が懾伏し畏怖するを以て目的とする恫喝の語であったのであろう。その語義が一旦は不明になって、却って語感の展開して来たことは、今ある小正月のナマハギやナゴミもよく似ている。咬もうがモウとなったのは所謂アクセントの問題である。東北の方では西南とちがって第一音節のgaに力が入らなかったものと思われる。そうなると蒙古人のことだという新説も生れ易く、又は亡霊をモウコンという新語を案出し得られた。化物を亡霊とは本来は同類で無いのだが、それがモウと鳴いて出て来る奥州や信州では、亡魂と解せられている一種中間の化物が加わっている。そうして冥界の危険は世と共に痛烈になった。この混同は日本の固有信仰の為に、一般に有害であったと言ってよい。
 一方この邦の言語学の側からいうと、これには又他では得られない幾つかのよい史料を含んでいる。陸中の上閉伊などでは、お化けをモウコという語と併立して、別に西国流のガンボウという名も伝わっている。第二音節のモウに力を入れた発音のし方も、最初からのものでは無くて、曾てはガの音に重きを置いていた単語が、ここにもあったことを想像せしめるのである。ガゴウという語はやや古く文献に録せられているから、これが今辺土に遺っているガモウなどの、一つの音訛の例だということは信じ得ぬ人があるかも知らぬが、私の説明は無造作だ。一方は日本語として少し意味があり、他の一方は無意味だ。人の空想から生れた語ならば、少しでも意味のある方が前のもので、それが慣用によって約束せられた後で無いと、他の一方の転訛は起り得まいと思うのである。ガゴゼ、ガンゴジ等の不可解なる接尾語が、諸処に残っているのもその痕跡だと見られる。だから古く知られている故に正しい元の語だとも言われぬと同時に、音韻の訛りは常にある傾向に沿うて進むとしても、それには屡々社会的原因とも名づくべきものが参与して、単なる生理作用だけではその過程を解釈することが不可能だということ、こういう相応に重要なる定理も、ゆくゆくはこれから導いて来ることができそうである。つまらぬ小さな問題のように見えて、その実は決してそうで無い。

一二

 オニという日本語の上代の意義は、頗る漢語の「鬼」とは異なっていた。これを対訳として相用いた結果が、いつと無くわれわれのオニ思想を混乱せしめたことは、曾て白鳥博士なども力説せられたことがあった。それと同様に方言のモウコ、ガゴジ、ガモジョ等を、直ちに標準語のお化け又は化物に引直すことは即ち又常民信仰史の眼に見えぬ記録の数十頁を、読まずにはね飛ばしてしまうような不安がある。方言は早晩消滅すべきものであろうが、残っているうちは観察しなければならぬ。そうしてその意義を尋ねるのが学問だと私は思う。所謂、お化け話の民間に伝わっているものは、今でもまだ若干の参考をわれわれに提供する。人に恨みを含み仇を復せんとする亡魂は別として、その他のおばけたちは本来は無害なものであった。こわいことは確かにこわいが、きゃアといって遁げて来れば、それで彼等の目的は完了したように見える。単に化物などというものはこの世に無い筈といったり何がこわいなどと侮ったりする男が、ひどい目に遭わされるだけである。そうして時あっては産女うぶめが子を抱いていた者に大力を授けたり、水の精が約束を守る者に膳椀の類を貸してくれる等、素直に彼が威力を認めその命令に従順である者に大きな恩恵を付与したというのみならず、更に進んでは妖怪変化と見えたのは、実は埋もれたる金銀財宝であったという話にまで発展しているのである。人をそこなう為に現われるのでなかったことだけはよくわかる。目的は要するに相手の承認、乃至は屈伏にあった。それ故に通例は信仰の移り変りの際に、特にこの種の社会現象が多いものと、昔からきまっているのである。東北諸処の田舎の年の夜の訪問者が、家主も謹んで迎え、又これに携わっている若者も、厳粛なる好意を抱いて演じているに拘らず、単に火斑剝離者の名を以て知られ、もしくは化物と共通の名を以て呼ばれているということは、これをやや零落せんとする前代神の姿として、始めて解し得る不思議である。彼等はただ自分の威力を畏れ又崇めなかった者をのみ罰せんとしていたのである。だからその表現には恫喝があった。取って咬もうとどなりつつその実は咬まなかった。神秘に参加せざる未成年者のみがそれを知らぬ故に大いに慄えたのである。しかも信仰は愈々変化して、今では児童の最も幼ない者の間に、僅かに残塁を保つに過ぎないのに、他の一方には何とかしてお化けを怖ろしい形に作りかえて、いつ迄もこれを信じようとする者が絶えない。おばけの話の年と共にあくどくなるのは、考えてみるとおもしろい人心である。

附    録

 お化けを意味するわれわれの方言が、土地によって始終変っていたらしいことは、今ある複合語の中からもこれを窺うことができる。たとえば東京は現在一様にオバケというが、なお関西のアカンベを、ベッカコウという語だけは残っている。ベッカコウは即ち目のガゴで、わざと目を剝いてこわい顔になることである。下野の河内郡などでは、瞼に腫物が出来て赤く脹れているのをメカゴもしくはメカイゴという。これも眼だけのガゴであろうと思う。仙台のお化けの声はモウカであるらしいが、なお隠れ鬼の遊戯はカクレカゴであり、水に住む源五郎虫をガムシといったと浜荻に見えている。この源五郎虫は恐らく「田がめ」の誤りであろう。この虫の水中の挙動が似ていると見えて、これを妖怪と同じ名で呼ぶ例は、備前丹後その他の地方にある。鹿児島県の種子島などでも今では妖怪をガモというようになっているらしいが、この田鼈だけは東北流にタモッコウというそうである。なおこのちなみにいうと、タガメのガメも石亀のことで無く、やはり水中の怪物の名として、かなり広い区域に行われているから、あるいはガモ、ガガモの方から導かれたものかも知れぬ。
 次に氷柱を豊前あたりでモウガンコというのも、同じ言葉の適用かと思うが、北九州には今はモウという語は消えかかっている。植物の畸形をさしてバケバケなどということは、東京附近でも折々聴く語であるが、その中で最も普通になっているのは薯蕷の子のムカゴである。加賀は今日はモウカの地域であるが、零余子のみはゴンゴといい、越中も各郡ともにガゴジョ、飛騨もガゴジョであって、ただ袖川村などがガモンジョになっている。九州も豊後筑後肥前などがすべてカゴで、浮羽郡吉井だけはヤマイモカンゴ、壱岐島はイモカゴ、広島県の一部ではマカゴといっている。ムカゴの「ム」は多分芋であろう。あるいはヌカゴともいって古くから文筆にも現われているが、本来はお化けのガゴから出て、もう一度優雅なk音に復したものなることは、他の諸例から類推しえられる。怪物を曾てガゴといっていた地方は、今よりも広かったものと思われる。岩手県のモウコ地帯にガンボウのまじっているのも、やはりこの地方にある時代の変化があったことを想像せしめる。

燭陰

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