一 子供の時の記憶
私たちは幼少の時分、よく祖父母から炉辺話に、ザシキワラシの事を聞かせられたものである。そのザシキワラシとはどんなものかと言えば、赤顔垂髪の、およそ五、六歳位の子供で、土地の豪家や由緒ある旧家の奥座敷などにおるものだということであった。そのものがおるうちは家の富貴繁昌が続き、もしおらなくなると家運の傾く前兆だともいわれていたという。
私たちは初めはその話を、只の恐怖をもって聞いていたものである。けれども齢がやや長けてくると、一般にこの種の物に対して抱くような、いわゆる妖怪変化という心持ではなく、何かしらその物の本来が、私たちの一生の運不運と関係があるようで、畏敬の念さえ払うようになったのである。世間でもまたその通りで、何処の何某の家にそのものがおるといえば、他では羨望に類した多少の畏服を感じ、又本元でも吉瑞として、ひそかに保護待遇に意を用い、決して他の妖異におけるが如く、駆除の祈禱や退散の禁呪などは求めぬのである。
幼年時代の記憶として、私はただこのザシキワラシのあることを知っている。その何物であるかについては、二、三の憶測や推察はないでもないが、自分にさえやや曖昧なことである。人に言ってみる気はない。むしろ他の学者の研究を早く聴かしてもらいたいと思う。私の心掛けたのは単なる蒐集者の苦労と忠実とをもって、同好諸士の心に見えんとすることであった。
まず順序として、このごろになって自ら聞いた話だけを集めておく。今までこの様な物のあることを知らなかった人に、ザシキワラシとは如何なる物かを考えてもらうために、自分に近い処から始める必要があるのである。
二 近頃耳で聞いた話
実話として伝うるもの
(一)私の村に近い綾織村字日影に、佐吉殿という家がある。ある時この家で持地の山林の木を売って伐らせたことがある。そのために家の座敷には、福木挽という浜者と、某という漆掻きの男とが、来て泊まっておった。するとどうも毎晩、一人の童子が出て来て、布団の上を渡り、又は頭の上に跨って唸されたりするので、気味悪くかつうるさくて堪らなかった。漆かきの男は、今夜こそあの童子を取押えて打懲らそうと、待伏していて角力を挑むと、かえって見事に童子に打負かされてしまった。その翌夜は同様にして、木挽の福もその者に組伏せられたのである。二人の男はいよいよ驚いて、その次の夜からは宿替をしたということである。もちろんこの家には昔からザシキワラシがおって、それが後を流れている猿ヶ石川の河童だという噂があったのである。今でもこの家の背戸には、佐吉殿の淵という淀みがある。てっきりその物の仕業だろうと、福木挽の直話だそうである。今から三十年ばかりも前のことという。その後この家は火災に遭うて失せたということである。(この村の鈴木某という老女から遠野町の松田という友人の家で聞く。大正八年三月某日。私の村は陸中上閉伊郡土淵村。町村の名だけ書いておくのは、皆同郡の内である。)
(二)綾織村字大久保に水口という農家がある。今から七十年ばかり前のこと、正月十四日の晩、非常な吹雪であったところが、その夜宮守村の日向という家から、何かしら笛太鼓で囃しながら、賑かに出て来たものがあった。それが水口の家の前まで来ると、ぴったりと物音が止んでしまった。世間ではそれが福の神で、その家に入ったのだと言ったそうである。それから水口の家の土蔵にはクラワラシがいるようになって、家計が非常に豊かになったということである。(遠野町の佐々木媛子氏から、本人の宅で聴く。大正八年七月某日。本人は母上から聞いたという。)
(三)その後、水口の家の土蔵にいたクラワラシが、いなくなったと噂されるようになった。それからはあまり家計が思わしくなくなったけれども、現今でもなお相当な暮しをしている。見えなくなったクラワラシは、隣家の沢という家へ移ったともいわれたそうである。沢という家は、この部落でも屈指の有徳な家である。(同上)
(四)綾織村字砂子沢に、多左衛門という家がある。この家で二、三十年前に、屋根の葺替をした時、葺大工どもが座敷に寝ていたら、何か判らないが、布団の上を渡り歩く者があって、とても寝付かれなかった。起上っていると来ないが、横になるとふたたび出て来るので、その夜は一目も眠らなかったという。これはザシキワラシの悪戯であろうと、人々は語り合ったが、この家もかなりの暮しの家である。(同上)
(五)綾織村字二日町に、二日町という家があった。今から五十年ばかり前に瓦解してしまった。そのころある雨のそぼ降る日、この家の門から、羽織袴で蛇の目の傘をさし高足駄を履いた立派な侍が出て、東の方をさして行った。村の人はそれをこの家のザシキワラシだと、言いはやしたとのことである。その家の後代は今遠野町におって、高橋姓を名乗っておる筈である。(一に同じ)
(六)鱒沢村字上鱒沢に、コスズという農家がある。この家には昔から、ザシキワラシがいるという言伝えがあって、座敷には毎日、膳部を供えておくのが仕来りとなっていた。その膳部の物が受けられたうちは、家運隆盛で大した生計を立てておったが、受けられないようになってからは、次第に家計が傾いて来たという。この家のザシキワラシは、一人ばかりではなかったらしく、家の者が留守のような時には、奥の座敷に大層面白い拍子で、何か御神楽みたいな事をやっていたそうである。
この家の屋敷の傍に、好い清水が湧いている。その小流にいる目高魚は皆片目である。他から入って来た魚でも、この水に入ると片目になるという。(二に同じ)
(七)鱒沢村字山岸の某家に、座敷の床の間の前から畳一畳去って寝ないと、夜半にワラシが来て揺り起し、また体を上から押付けたり、枕返しをしたり、とても寝させぬ処がある。もちろんそれはザシキワラシだということである。(遠野町の友人俵田浩君の話、これは七、八年前に聞く。)
(八)土淵村字飯豊に、今淵某という旧家がある。この家にも昔からザシキワラシがおるとの言伝えがあった。これも座敷の床の間から二枚目の畳の上に、夜寝得る者がないともいわれていた。その分家の某という人の母親などは、時々夜中に座敷をとたとたと歩く足音を聞いたものだと言うておる。あるいはその足音が、宵から夜明まで、ちょうど二、三人の子供等が、何か遊戯でもしておるように、入乱れてすることなどもあったという。そんな音が聞えるうちは、この家も繁昌しておったが、二十年この方その足音が、ついぞしなくなったのである。それからは若い主人が死に、数々の不幸が起って、家がすこぶる衰えた。その分家の老女は、まだ丈夫で生存しておる。(飯豊の人今淵小三郎君から土淵村の役場で聞く。大正八年四月二十九日、本人は母堂から聞くという。)
(九)同じ家に、私の村の瀬川勘助という人の父親、ある時何か用があって行って泊ったことがある。奥と表との間の十畳ばかりの座敷に寝せられたが、夜半に奥座敷から、何かとたとたと歩いて来ると思うと、やにわに懐に冷たい手を入れられた。かねてこの家にはザシキワラシがいるということを聞いていたので、それだろうと思うと気味の悪いことおびただしい。そこで体を縮めて堅くなっておると、脇の下をくすぐったり、しまいには腹の方までも撫でたりして、全く始末におえなかった。けれども人に笑われるのを恥じて、朝までじっと我慢をしていたが、体はびっしょりと汗まみれになっていた。やっと朝になって起き出ると、家の人だちはくすりくすりと笑って、昨夜は逆夜這に来られて、面白いことをしたろう、とからかわれたということである。この物のおる家では、故意にそんな座敷に客人など寝せるものらしい。(土淵村字田尻瀬川勘助氏話。本人は父から聞くという。大正八年九月十二日、同村の厚楽という家できく。)
(一〇)土淵村字山口に、瀬川九平殿という家がある。この家が今から五十年ほど前、まだ分家をしたばかりで、本家と小川を一筋隔てていた頃の事である。家の人だちは皆畑へ出て行って誰もいないのに、座敷の所の障子の隙間から、赤い頭巾を被った赤顔のワラシが、外へ手を出しては又内に引込め、余念もなく遊んでおるのを、本家の爺様などがよく見たものだという。又家の人だちが田畑へ行っていて、何か用事でもあって、時でもない刻限に帰って来たりすると、茶の間などにとたとたと、三、四歳の子供の戯れ遊ぶような足音がしていたものであったという。(同じ日同じ処で聞く。土淵村字栃内厚楽某の話。)
(一一)土淵村字柏崎、片岸の長九郎という家にも、例の寝られぬ座敷がある。十年ばかりも前のことであるが、隣家が失火で風下に当っておった故、長九郎の家の屋根に火粉が落ち、彼処此所に燃えあがる。この近辺は人家やや立込んでおれば、それぞれ助人は身寄に駈附けて、騒ぎの大きなわりに人手が少く、同家もほとんど危機に迫った。ところがどこから来たとも分らぬ十四、五歳の小僧、やにわに屋根に駈上って、火を揉消して廻る。その内に火事も鎮り、近所から炊出しなどの出た時、あの童子にもと思って探したが姿は見えぬ。やっとそれではと気が付いて、座敷に入って見れば、オクナイサマは汗みどろになって、倒れておったということである。この家のオクナイサマのおられる座敷に寝れば、種々な悪戯して少しも眠らせぬという。よくザシキワラシに似ている。このオクナイサマは、何かにつけて今も折々、家人に現れ助力すると言われておる。(土淵村字栃内、大楢政吉という人の話。大正八年六月十九日。このオクナイサマの事は、別に十年前の『遠野物語』にも書いておいた。)
(一二)土淵村字本宿に、三之助という家があった。この家がまだ盛んな頃、村の巳代吉という者と、他に一人の若者とが奉公しておった。ある夏の夜のこと、軒の下の何かの上に寝台を造って、二人臥せっておると、夜半ごろ、田圃を隔てた向うの山岸の方から、何やら鈴鳴輪の音にぎやかに、多勢の馬子でも来るようす。巳代吉等は怪しんで、今頃途方もない方から、何物だろうと話し合っておると、その音が段々と田圃を横ぎり、本街道に出て、件の三之助殿の家の前へ来た時、暫く小休みして静かになり、そうして二、三人の人声で、この家からは何を持って行こうか、という声がしたように、男等は思ったとのことである。その夜は大変蒸暑い夜であったそうである。何でも旧盆過ぎであったかなと、今五十ばかりになる巳代吉の直話である。その後私たちが覚えてから、この家は火事に遭うて亡び、今は跡形もなくなったのである。馬子の話なども、家運衰微の前兆であったろうか。今から二十二、三年前のことらしい。(本人実験談、土淵村栃内野崎の者である。同じ日に聞く。)
(一三)土淵村字栃内火石の、北川という家の奥座敷に、この家から他へ行っておる叔父が、泊りに来て寝ておると、神仏を祭ってある次の室の襖のすき間から、細い長い手が出て、自分を招ぐようであった。これは本人から聞いた直話である。その後この人は海嘯に遭うて、家屋財産は申すに及ばず、妻子までも失うたのである。それらの前兆であったろうかと言っていた。
この手を俗に細手長手といって、やっぱり吉凶禍福につれて、人の家に現れるものとしておる。これもザシキワラシの一種だろうと思うから、同じ所に記録しておく。(やや古い自分の記憶)
(一四)土淵村字栃内火石、長田某という家の座敷に、ある時家の子供等が、用事があって入ってゆくと、長押の処から細い赤い手が一本垂下っていた。それがちょうど三、四歳の小児の手位で、腕が二尺ほども長く、きわめて細く蔓物のようであったという。子供等は驚いて叫びつつ、家の人とふたたび連立って来て見ると、もう何物もなかった。十年余前のことで、その後間もなく大洪水で、同家では土蔵長屋などを流したのである。これは細手というものであったらしい。(同上)
(一五)土淵村字栃内の火石に、庄之助殿という有福な家があった。近郷切っての巨家で、家の中には色々な神仏の像が、祭ってあったものである。ある日家の人だちが家を空にして、皆野良へ出ている留守場中に、神壇の前に掛けてある鐘ががんがんと鳴出した。この家の隣には、分家の正福院という、手習師匠をしている山伏法印が住んでいたが、折柄そこにきていた手習の子供等が、その鐘の音を聞付けて、今頃本家には誰もおらぬ筈だのに、これはおかしいぞと言って、どやどやとその家へ駈けて行って見ると、十四、五歳とも思われる一人のワラシが、狼狽して神壇の下の、腰棚の中へ入って匿れた。子供等も怖くなって、わいわい騒いで引返し、野良へ家の人だちに告げに行って、家の人だちと多勢でふたたび来て見ると、もうそこには何物もおらなかったという。
これはこの家のザシキワラシであったということである。又この家には、ザシキバッコというて、婆の怪物もおったという話がある。鐘の話は四十年も前のことであろうか。今は瓦解して別の家族が入っている。(同地北川清翁の話、翁の実験談。大正八年九月某日、拙宅にて聞く。)
(一六)同じ庄之助殿の家に、近所の源蔵という男が、奉公しておったことがある。ある時表座敷の入口の敷居寄りに寝ていると、夜半頃奥座敷の方から、何物かつたつたと足音をさせて出て来るので、ひょっと顔を上げて見ると、五、六歳位の一人の子供である。やにわに源蔵に飛掛って来て、角力を挑むので、源蔵は何これしきのワラシをと、心の中で軽蔑して相手になると、このワラシ、骨節がいやに堅くて中々手ごたえが強く、どうかするとかえって自分が負けそうになる。やや小半時も相撲っておるうちに、ふと宵に誤って履いて来て、枕元に脱棄てておいた草履に手がさわったので、思わずそれを取って、ワラシの頭といわず顔といわず、めった打に打叩いた。すると子供はにわかに力が弱くなって、そこにへたばったと思うと、すうと源蔵の手を掻抜けて、また奥座敷の方へ逃げて行ったとのことである。三十年ばかり前の九月頃の夜のことである。源蔵にそのワラシの様子を問うに、顔の色は普通の子供のようで、何か衣物を着ておったと答えた。今年四十七、八の男。これはその直話である。(土淵村字山口、山崎源蔵氏実験談。大正八年九月十五日、拙宅にて。)
(一七)土淵村字栃内田尻の厚楽という家は、昔はかなり有福な家であった。海岸へ行く馬継場になっているので、毎夜あまたの泊客があった。しかし誰一人その奥座敷に寝得る者がなかったそうである。ある夜浜辺の客人でがま伊勢という者、何そんなことがあるものかと言うて、その座敷へ寝ると、夜半頃懐に手を入れられて、大いにくすぐられた。そんなことはさせまいと起上って、襟を掻合せると、今度は袖口から手を入れてくすぐる。いやはやとても居たたまらず、鶏うたい頃には他の座敷へ逃出したという。悪い畳でもあるものかと、この家の主が言うけれども、これもザシキワラシに違いない。(一〇に同じ)
(一八)土淵村字栃内に、田尻の長者万十郎という家があった。所の檀那寺を三つ位も合せたほど大きな家であった。六、七十年も前の事であろうか、ある時座敷で何物かが大変騒ぐ音がするのを奉公人どもは聞いてこの家のザシキワラシも何所へか出て行くな、と言合っていた。ところが間もなく火災に遭って、焼失せたとのことである。
この家は今もある。火事の前までは、七手綱の馬を常に使って、浜あるきをさせていたものだという。一手綱は七疋組である。ある時横田の町へ若主人が行くと、他郷の者どもが他郷の長者の若主人に、和子和子というのを聞いて、これはおかしい、己の他に和子という人があるとみえると言って、ひどく不審がったという話もある。
炉の埋火は一人でするものとは、昔からいうことである。この家の奉公人どもは既に家運の傾きかけた時には、何事にも主人にさかろうて、五、六人して鍬で炉の埋火をし、その上にわざと火の消えるように、水を注けたりした。ある朝起きて見ると、炉の中に多くの茸が生えていたということである。これも家の衰える兆であったろうと老人が話しておる。(一三に同じ)
(一九)土淵村字栃内、爪喰の佐々木某の家にも寝られぬ座敷がある。若しそこに臥ると、夜中に子供が来て押付けてならぬという。この家は二、三代続いた角力取で、諸処の荒くれ者が折々来ては泊るのに、その座敷に寝得た者はないということである。ある年の秋、屋根替をするので、村の柏崎の水内の若者ども、仕事に雇われて来て泊ったことがある。かねてその座敷の事は聞いていたから、誰一人先に入って寝ようとする者がない。しかし血気の若者揃のことだから、こんなことでは柏崎衆の名折だと、二、三人床の間の前に踏反返って寝たが、昼の労でたちまち眠入ったのである。やがて夜半頃となった時、不意にその中の一人が唸り出したと思うと誰の体の上にも、何物かがみしみしと足の方から踏上って来て、ぎゅうと体を押付けた。その苦しさと言ったら、呼吸も止りそうであった。しかしその中での剛の者、ザシキワラシでも何ほどの事があろうと、やにわに起上って上の物に組付いて捻合をする。それに力を得て他の者もやっと別室の朋輩を呼ぶことが出来、にわかに灯火を持って人々が、そこへ入って来て見ると、ザシキワラシと思ったのが、当所の若者どもに変っているので、後は大笑になったということである。(柏崎の阿部某実験談。大正八年六月十九日聞く。)
(二〇)土淵村字栃内、西内の佐々木某の家に古い一枚の猩々らしい物を画いた小屏風を、今でも保存している。ある年この絵屏風を、同部落のカクラの家というに遣わしたところ、カクラの家の人だちは、毎夜のように同じ夢を見る。その夢は、赤顔垂髪の一人の童子が、座敷から常居にかけて、すたすたと歩くのである。初めは誰も気にかけなかったが、そのうちに家の者が同じような夢話を、毎朝語り合うようになって、ようやく不審を起し、町の巫女に占うてもらうと、これは何だか木像だかそれとも絵姿か、とにかく夢の中に現れる物が、元の家が恋しくて戻りたいので、そなただちの夢枕に立つのだと言われて、早速その屏風を元の佐々木家へ返すことにすると、その夜からは夢は誰も見なかったということである。
これはその絵を見た沖館という六十歳位の人の話である。この人は真面目な人望家で、先日ザシキワラシの事を、私の方の部落で聞いてみたところ、この家の人にこんな話を聞いた。ザシキワラシによく似ておる。いつかその屏風を見に行ってごらんじろと言われた。(栃内の爪喰の人沖館鶴蔵氏話。大正八年二月三日、村の役場で聞く。)
(二一)土淵村字栃内の、在家某という家には、オクナイサマとオシラサマがあった。また座敷にはザシキワラシがいた。この家の縁者に当る柳立の伊勢吉という人、ある夜その座敷にとまると、夜中に何物かに両脇から手を入れて掻抱かれ、あるいは畳の上を転がされなどして、とても寝られず、別室へ逃出したということである。この家もそのザシキワラシのいるうちは繁昌したが、二、三十年前から座敷に枕返しもなくなると段々と家運も傾き、今では跡形もなくなったそうである。本人の直話である。(土淵村山口の人。大正八年九月某日。)
(二二)土淵村字似田貝の、似田貝某という人の家に、二十年ほど前、ザシキワラシが出るという噂が立ったことがある。みんな見に行ったものである。同村の友人で荒川という人の話に私もある日行くと、家の人だちが口々に、あれあれ今座敷から玄関の方へ出て行ったとか、今それこちらへ来たとか、どこに入ったとかしきりに言うけれども、私の目にはとうとう見えなかったという話である。この人は今三十八、九のきわめて真面目な、土地には珍しいロシア正教会の信者で、決して偽言などは言わぬ人である。(一三に同じ)
(二三)土淵村字本宿にある村の尋常高等小学校に、一時ザシキワラシが出るという評判があった。諸方からわざわざ見に来たものである。児童が運動場で遊んでおると、見知らぬ一人の子供が交って遊んでいたり、また体操の時など、どうしても一つ余計な番号の声がしたという。それを見た者は、常に尋常一年の小さい子供等の組で、それらがそこにおるここにおるなどといっても、他には見えなかったのである。遠野町の小学校からも見に来たが、見た者はやっぱり一年生の子供等ばかりだったそうである。毎日のように出たということである。明治四十五年頃の話である。同校教員高室という人にこのごろただすと、知らぬと言ったがどうした事であろうか。この人はその当時から本校におった人であるのに。
(二四)遠野町の小学校は、鍋倉山という昔の城跡の麓にあって、これは城の御倉の建物をそのまま使用しておった時分の話である。二十四、五年も前のことであろうか。毎晩九時頃となると、一人の白い衣物を着た六、七歳の童子が玄関から入って来て教室の方へゆき、机椅子などの間を潜って楽しそうに遊んでおる。かぶきり頭であったといえば、多分ザシキワラシであったろうと思う。いつか友人の伊藤という人から聞いたことがあった。(一三に同じ)
(二五)栗橋村字砂子畑に、清水の六兵衛というかなりに有福な家がある。明治三十年頃の、旧暦三月十六日の夜、私の村の大洞犬松という男が、所用あってこの村へ行き、この家に泊ったことがある。その夜は他にも二、三の泊客があって、何れも常居の方に寝ね、家人に強いられるままに、独犬松ばかりが、表座敷と奥の座敷との間の処に寝させられた。表座敷には薄暗いランプがついていたということである。やがて夜半とも思われる刻限に、奥座敷の床の間の方で、何物かの足音がすると思って、犬松がひょっと顔を上げて見ると、一人の坊主頭の丸顔の、小さな老婆が這出して、自分の寝ている方へやって来る。はッと思うと、その老婆は低い声でけたけたと笑って、隅の小暗い方へ引返して行く。そうして這出して来ては、笑声を立てて又引込みそんなことを二、三度繰返してやるので、堪りかねて夜明頃に、常居の方へ逃出して来た。朝になってその事を皆に話すと、家の人だちは笑って、この家の座敷には昔から、ザシキワラシという物がいるのだと、言うたとのことである。
同じく私の村の、新屋の長助爺という人もこの家に泊って、この老婆に一夜けたけた笑いをされたことがあるそうである。これは犬松の直話である。当年五十七、八歳の人である。(土淵村栃内の大洞、大洞犬松殿実見談。大正八年九月十二日、同村厚楽の家で聴く。)
(二六)栗橋村字栗林の、小笠原嘉兵衛という家にも、ザシキワラシがいるということである。このザシキワラシは、元本家の横市という処の、西郡の勘左衛門という家にいたものである。この、西郡の家はなかなか有福な家で、立馬七十疋ほども持っていた。ある日前の川原に馬を放しておくと、馬がやにわに暴れ出して、馬舎の中に駈込んで来た。その夕方下男の一人が、飼葉を遣ろうと思って馬舎へ行くと、不思議にも馬槽が引繰返って伏さっているので、起して見ると一疋の河童が潜んでいた。それから大騒ぎになり、たちまち多勢のために河童は捕われて、何故にこんな悪戯をするのかと、人々に問いただされると、河童のいうことには私は元来馬が大好きなために、馬を曳いてみたくて堪らず、手綱を取って引張ると、この馬が暴れ出したので、私の力が負けてここに来た。どうぞ生命は助けてくだされと、涙を流して詫入った。そこで生かす殺すの議論が分れて、決しかねておる所に、この家の主人、これからかような悪戯をせぬという証文を書いたなら宥してやろうと言うと、河童は左の腕を嚙切って指で侘証文を書いたそうで、今にこの家に保存してあり、珍しい客人などには見せるのを例としているという。この河童はこうして主人の情でやっと宥された後に、川から上ってこの家の座敷に入り、そのままザシキワラシになったということである。なかなかの主家思いであって、馬に飲ませる米の磨水が不足になると、家の後の沢の水を濁して白水に変え、半切に幾つも雇人どもに汲取らせて、馬舎用にさせたということである。その後、この西郡の家が少し運勢が傾きかけた時に、今の嘉兵衛という別家に住換えたのであるが、この本家と別家との間は、小道十里ばかり、即ち一里余の道程がある。(同じ日同じ場所で、土淵村栃内の田尻、古屋敷米蔵爺の話。)
(二七)釜石町の字沢村という処は、昔からの遊女町である。新倉屋という家があった。この家にも何人も入ることの出来ぬ一つの室があったが、ある夜突然に、この入らずの室から、太鼓三味線のにぎやかな囃子の音が起った。それからは毎夜のように、かなり久しいこと続いたのである。その頃秋田から買われて来ていた一人の女は、ある夜そっと室の内を覗いて見たために、中から物で目を突かれて片目になった。これはザシキワラシの仕業で、この家には夫婦おったということである。五、六十年ばかり前の話である。今はこの家はない。(遠野町松田亀太郎君話。他の多くの話と共に大正八年二月から四月の間に聞く。)
(二八)上郷村字中沢の、菊池鳥蔵とかいう家で、四、五年ばかりも前から、土蔵の中で時々何物か機織る音をさするということである。その刻限は夕方から初夜にかけてである。近頃この家に奉公している同村善能寺の菊池某という若者は、ああ、あの機織る音なら先だっても夕方からしきりにやっていた、何でもない、ザシキワラシだよと、言っていたそうである。これは私の知人菊池という人の話である。近いうちに音がするから、二人で行って聞こうと約束などしたことである。(青笹村糠前鳥小屋菊池良君の話。他の多くの話と共に大正八年九月十八日、村の往来で聞く。つい近頃実見者から聞いたという。)
(二九)青笹村字関口、菊池某という人の家の土蔵に、ザシキワラシが出て、窓際に据えておいた糸車を、くるくる廻すこと、日に幾回となく、それがかなり永いこと続いた。その当時この家は村の役場をしていたので、しばしば多くの人がそれを見た。ことに春の馬検などの日には、多勢で見たそうである。窓の内側には細い金網を張ってあった。そこから見ると、極めて美しく細々とした手がちらちらと動き、それにつれて糸車がくるくると廻る。その当時区長を務めておった菊池登という人、同役の木村徳太郎という人と共に、ある日土蔵の戸前に張番をしていると、やがて二階で糸車の廻る音がからからとする。それと二人で梯子を上って二階に顔を出すと、窓際ではまだ空車が余勢で廻り、何物か黒っぽい物が、床板にぺたりと踞って、そのまま姿を何処へか隠したという。何人が行って見ても、その通りであったそうである。その後この家は焼け、遂に瓦解して、今では近所に別に小さな家を建てて家人が住んでおると、菊池登翁の直話である。今から三十七年ばかり前のことという。
この話を聞いていた立花某という人語る。その家はわたしの妻の来た家で、わたし等は常に往来をしたものである、その話も実際事である。当時あまり見物人が来るので、家の者は常に土蔵の土戸を細目に開けて、二階の糸車が廻るのが、見えるようにしておいたものである。それはそれはめごい手が出て、糸車を廻したものである。人が梯子段を上って行くと、いかに静かにして行っても、よくそれを覚って、敷板の上に不意に打伏になってたちまち見えなくなるのであるが、家の人だちの話では、如何にも登さんの話のように黒っぽい二、三歳位の子供といえば子供とも見えるものであったといっておる。その当時の人だちは、まだおおよそ生きておる。何ならその家へ行って、しかとしたことを聞いてござれ云々。(菊池登翁の実験談。前の談者の父。大正八年四月二十六日、土淵村字山口の南沢、新田家で聞く。)
(三〇)土淵村字山口の、新田寅之助爺は語る。糸車が廻るといえば、実はわたしもそんな事なら知っておる。わたしがよく行っていた羽戸の家の土蔵の中でも、何物かが毎夜からからからと、糸車を廻したものである。もちろん何物のしわざか誰も知らなかったが、それも今の話のように、ザシキワラシであったかもしれぬ。この家も山口草分の家で、その川戸には小豆磨がいるといわれた家だから。(実験談。月日場所同上。)
(三一)松崎村字宮代の何某という家のザシキワラシは、その家の運勢の衰えた時、家を出て上村の方へ、おういおういと声を立てて、泣きながら行ったそうである。今から三、四十年程も前のことであったろう。(二七に同じ)
(三二)松崎村字海上の菊池某という家に、昔からザシキワラシがいるという噂があった。実際夜などは、座敷で子供の歩くような小さな足音がしたものである。ところがこの家が段々傾きかけてくると、そのワラシが隣家の喜七という家へ移って今ではそこにいるということである。(同地西教寺、諏訪君話。大正八年九月十八日、土淵小学校にて。)
(三三)遠野町の市川某という当時八十五歳になる老女の話に、この人十六歳の頃で、まだ青笹村字中下という所の生家におった時、ザシキワラシを見たことがある。ちょうど秋の稲こきの時で、家では朝から取込んでおったため、皆の後で朝飯にしようと、ひとり座敷におると、縁側の戸袋の方から、ひょっくりと一人の童が飛出して、たちまちどこへか姿を隠した。髪は黒くて長く切下げ、顔は赤く、素足のようであったという、一見可愛らしいようにも見えたそうである。丈は三つ位の小児ほどであったが、どんな衣物を着ていたかは、覚えておらぬというておる。見た際はちょっと驚いたそうである。幼少の時わるさをすると、常にザシキワラシが来るぞと言われていたためであろう。しかしその時はそれがザシキワラシだということには気が付かなかったが、後にそれだろうと家の者が言ったとのことである。
その後又、クラワラシを見たが、ザシキワラシよりは一層顔が赤く見えた外、おおよそ同じように思ったといっておる。(この老女から聞いたという、遠野町三浦栄君の話。遠野小学校において、大正八年六月十日。)
(三四)遠野町の高室という家の土蔵に、クラワラシがおるという噂が昔からあった。そのクラワラシが時折、土蔵の大黒柱のまわりを、くるくると廻っておることがあると、家では小豆飯を炊き御膳立をして、その柱の処に供えておくが、それをいつの間にか綺麗に食べてしまうということである。
この事は話をした人の祖母の代まではあったが、今では小豆飯を欲しがって大黒柱を廻る者もないから御膳を供えることもせぬという。この家は昔は大分限者であったということ、当所の旧記類にも出ておる。(大正八年六月某日。遠野町体室武八君の話。御祖母さんに聞いたという。)
(三五)遠野の一日市町の古屋酒屋という家に、一棟ひどく薄暗くて陰気な土蔵がある。出入の職人の某、ある日その土蔵の中で働いておった処、奥の方で異様な足音を立て、その上にほいほいと呼ぶような声がする。まるで小児のようであったそうである。淋しくなって仕事を中止して家へ帰り、あれがクラワラシというものであったろうと、話したということである。(三三に同じ)
(三六)遠野の新町に、太久田という宿屋があった。この家のおばあさんが、ある日二階に行くと、そんな客人もなかったのに、赤い友禅の衣物を着た十七、八の娘が、座敷の中を彼方此方と歩き廻っておるのを見た。これがこの家のザシキワラシだったということである。その後も折々家の人に見えたそうである。今から五十年ばかりも前のことらしい。この家今は跡方がなくなった。(二七に同じ)
(三七)遠野六日町の松田という家にも、ザシキワラシがいるというはなしである。六、七年前、この家に不幸があって、二階の一室に仏壇を据えてその前に、この家から嫁へ行った人の夫某が寝ておった。すると夜中頃に、何者とも知れぬものが出て来て、それはそれは冷たい手で、寝顔を撫廻すので、吃驚して起上って見ると、髪を短かくして下げた、ちょうど河童に似た者が、向うへ逃げて行く所だったそうである。
この家では、天井の煤埃のたまっている処などに、時々小さな足跡が附いていることがある。ザシキワラシの足跡だということである。(二に同じ)
(三八)気仙郡上有住村の某家に、久しくザシキワラシがおるという言伝えがあったが、誰一人それを見た者はなかった。ところがある年たまたま、ぼろぼろの襤褸を着たカブキレワラシが、三つ四つばかり家の人の目に触れた。それからこの家が段々と衰えたということである。(二に同じ)
(三九)気仙郡吉浜村、新沼長吉郎という人の家にも、ザシキワラシがいた。座敷に寒晒粉などをひろげておくと、それに小さな足跡がついているそうである。この家は現在郵便局などをして、なかなか有徳な家だということである。(二七に同じ)
(四〇)稗貫郡花巻の在、外川目村の某家には、昔から赤顔のザシキワラシがいるという噂があった。今から四年ばかり前、ある日土蔵に置いた筈の食器類が、いつの間にか本屋の棚の上に持搬ばれて来ていて、家の人が揃って夜食などする時、上からがらがらと投下されたことがある。これはそのザシキワラシの悪戯であったそうである。当時その家に仕事に行っていた大工の直話である。(下閉伊郡小国村生れの大工磯吉話。大正八年七月二日拙宅において聞く。)
(四一)下閉伊郡小国村桐内の某家にも、昔からザシキワラシがいると言伝えられてあった。それが時折、仏壇の香炉箱の灰の上に、小さな足跡をつけると、この家には必ず死人があると言われていた。一両年前に祖父が死んだ時なども、香炉の灰のついた足跡が、仏壇のあたりに多くついておったということである。(同上)
(四二)九戸郡侍浜村の南侍浜に、九慈という土地草分の旧家がある。所の豪族だということである。この家の旧座敷と新座敷との間に、極めて黒い柱があるが、この柱の方に枕をして寝ると、枕返しにおうてとても眠られぬということである。この家の古いことは新座敷といっても、二百年も前の建物で、やっぱり黒く光っておるというのでもわかる。(遠野町牧野氏話。大正八年七月十八日、土淵の小学校で聞く。)
(四三)和賀郡藤根村、藤根某の家にも、ザシキワラシがおるという噂があった。この家の祖母、まだ齢若い頃、ある時土蔵へ行く廊下で、赤顔の散切頭のワラシに逢ったことがあると、常に話したものだという。これはその孫の話である(この村生れの某女から、十年ほど前に聴く。同女は祖母の直話をきく。)
(四四)江刺郡稲瀬村字倉沢、及川某家には、内土間には米搗ワラシ、ノタバリコ、座敷にはザシキワラシがいた。米搗ワラシというのは、夜中に石臼で米を搗き、箕でもって塵を払う音などをさせる。ノタバリコというのは、やっぱり夜半に内土間から、茶の間あたりにかけて這って歩くものという。ザシキワラシは座敷にいる。すべて四、五歳ほどの子供のように見えたということである。
この家の分家の及川という人は、永年私の村に来て住居している。この人が曰く、ザシキワラシの中で、最も色白く綺麗なのは、チョウピラコという。これに次ぐものは何であろうか、ウスツキコ、ノタバリコというものになると、種族の中の下等なものになるらしいと。十年前にも又、今も同じようなことを繰返して言った。実際あの土地の口碑と信じてもよいように思う。(大正八年九月十一日、土淵村本宿で、及川氏の話を聞く。)
(四五)紫波郡佐比内村の山の中に、畠山巌という旧家がある。これも有福な暮しの家で、昔からザシキワラシがおるとの言伝えがあった。出る場所は定まっていないが、夜床の間の前に寝ると、必ず唸されたり、くすぐられて笑わされたりする。ある時この家の祖母さんが、仏壇の前でザシキワラシを見たことがある。顔が赤く猿のようであったという。また厩に繋いでおいた馬を、解放したことがある。又ある時などは、天井から茶碗や椀などの勝手道具を、がらがらと投下したことがある。その一つの椀には、囓歯類の歯の痕が附いてあったそうである。ある時には庖丁が飛んで来たり、また唐辛子の入った皿が下りて来たことなどもある。又ある雨の振る日には、戸締りを厳重にしていたに拘らず、庭の石を家の中にどんどん投込んだことがある。そんな事があってから、そこの家が間もなく焼けた。その後また祖母が死ぬ時にも、大正七年の悪性感冒が流行してきた時にも、そんな事があったということである。
右の話をした者はこの家の近親の人で、二十六、七歳の獣医である。その投げられた石を一個所持している。指紋などを調べてみたいと言うている。(二七に同じ)
(四六)盛岡市の士族屋敷などには、何処の家にもたいていザシキワラシがいるとせられておったものだという。土淵村の現村長小笠原氏の話に、御維新当時、南部藩から白石へ転封せられて主従散々になった時、同氏の生家でも一時、内丸の栗山という家の屋敷に引移ったことがある。この家には昔からザシキワラシがおるといわれておったので、夕方戸締りする時などには、内心大きに恐れ怖じておったものであるが、わたしはつい見たことがなかったと。
盛岡地方では、ザシキワラシのことを、ザシキボッコともいうておる。おおよそ五、六歳位の皿子頭の童子で、多分狢などが化けたものだろうともいったそうである。(盛岡生れの人、小笠原長順氏話。大正八年二月三日、村役場にて。)
(四七)附馬牛村の新山という家の土蔵の中で、ある夜ほとんど夜明頃まで、何物かがえらく喧嘩でもしているように、荒びる音がしていた。家の者は驚きかつ怪しんで、翌朝早く行って戸を開けて見ると、一人の極めて美しい子供が倒れて死んでおった。顔が透るように真白く、丈は三、四歳の児位もあった。体には傷などは少しもなかったが、床板を放して見たら血が一杯流れてあった。これはザシキワラシだといって、家人はその子供を前の猿ヶ石川へ棄てたということである。これについて世間ではいろいろな風評をしたものである。あるいは新山家のザシキワラシと、隣家のザシキワラシとが、何かの訳で喧嘩をして、遂に一方が殺されたのだともいった。その証拠には、隣家のザシキワラシも大分傷をしたものらしく、血をぽたりぽたりと滴しながら、我家の土蔵の戸前まで、帰って行った形跡があったからだという。又一説には元この新山家には夫婦のザシキワラシがおったが、その中のどっちかが一人死んだため、残った一方が隣家へ行ったとの噂もあった。又一説では、二軒の家のザシキワラシのうち、片方の女性が死んだために女争いをしてこのような事を演じたのだともいった。とにかく片方の死亡から、それが今度は本当の人間同士のいきさつとなって、片方の家の富貴となるのを恐れかつ嫉み、火災などが起きたりなどしたので、一時大分有名な話であったが、その後の事は私は何も知っていない。
この話は別に柳田先生の「石神問答」の中にもある。又大正六年の夏、露人ネフスキー氏と共にこの村を訪れた時、村の寺の住職も現にこの話をしきりにしておった。片方の家の子息は今年二十四、五で私の知人であるが、少しも知らぬと言う。この出来事は今から十二、三年前のこと故、知っておればよく知っている筈である。しかしこの話ばかりではない。又ザシキワラシの話に限らず、現在あると聞いて行っても、家の人はそんな事はない知らぬ、誰から聞いて来たと、必ず問返す。若しその人の名前を言おうものなら、あの人は偽言を言う人だから何を言ったかと、遂には此方までも妙に嘲笑し、今時そんな馬鹿気た話を聞き歩く閑人よと言わんばかりである。けだし件の如き怪異は、あまり喋々したくないのが普通の人情である。それが又色々の噂の附加わっていく原因でもあるのである。正しい報告は何れにしても得難い。(一三に同じ)
(四八)達曾部村字芋野新田の、多田某氏の家からザシキワラシが出て、夜半にぺちゃぺちゃと足音を立てて、宿の方へ行ったという話がある。この家は土地での豪族で、今の主人は東京で弁護士をしておられるそうである。この話は今から三、四十年も前のことらしいが、これはそのために家運衰えたともきかぬ。(三三に同じ)
(四九)宮守村字粡町、河野某氏の祖母が子供の時、廊下でザシキワラシに行逢うたことがある。顔は赤くて短いムジリのようなものを着ておったそうである。この人は八十余歳で今に生きておる。見たというのは十一、二の頃でもあろうか。(同処の人、阿部政三君の話。大正八年三月六日拙宅において。同君はその婆さんから聞くという。)
(五〇)宮守村字塚沢、大田代某という人の家にも、寝られぬ座敷がある。けれども不思議なことには、この家の老爺さんばかりは寝られたという。去年の秋の頃だとか、この家の土蔵の内から、何物か唸るような鳴音がし出して二、三日ほど続いたが、その頃からその座敷にザシキワラシが出はじめたのである。丈は一尺二、三寸ほどで、ちょうど臼搗子という種類のものらしく、座敷のうちをとたりとたりと跳廻る。しかしワラシと言えば言えるけれども、色は黒く何だか獣みたいであったと、その家の人は話したという。(四七に同じ)
(五一)遠野大工町の、佐々木某の家は代々の大工職である。そこの息子で二十七、八歳の若者、ある時二階の仕事場で働いていると、色の黒っぽい二つ位と見える子供のようなものが何処からともなく出て来て、ちょこちょことその辺りを歩き廻る。怪しみかつ好奇心もあって静かにして見ていると、その物はほとんど人もなげにしばらく遊んでいたが、終に乾かしておいた板の間に入って行った。それからは若者が二階にいる時は、ほとんど毎にそれが出て来て遊ぶので、遂に菓子などをやるようになると、それも平気で取って食い、遊び倦きれば例の板の間に入って行く。若者も面白くなり、夜など外出することがあれば、必ずみやげの菓子を買って来ておくという。夜もそこに寝ていると、町家のことだから軒伝いに、猫などが窓の外に来て覗くことがあると、その物はふうふうと声を立てて、それを叱り退けるということである。
この話は大正八年四月二十六日、村の光岸寺の住職熊谷氏から聞いた。この春小細工物をするにその若者を招き、寺に二、三日とめておいた時に、誰にも話してはくれるな。あなたは和尚さんだからといって話したとのことである。この話を聞いてから、私は町へ行くような時は、注意してその家を見る。極めて小さな家で、その出るという二階なども、三間に二間半位の一室らしい。こんな所におるのかというような気持もする。しかしそれは現代のザシキワラシかもしれない。(土淵村山口の新田氏宅できく)
物語化したるもの
(五二)これは昔の話である。遠野郷きたがめの栃内の某、北方小国から遠野へ越える立丸峠というを越して来ると、恩徳のかっちに齢若い二人連の美しい女が休んでおった。そして一つの朱塗の飯台を持っておる。不思議に思って、お前だちは何所から来て、何処へ行くお方かと問うと、女等は。今まで海上のかぜん長者の家におったけれども、あの家もいまに貧しくなるだろうから、わたしだちはこれから小国の道又の家へ行くと答えた。某はそのまま別れたが、そんな話があってから、道又の家には二人の娘のザシキワラシがいるという噂があって、近年までも稀には家の人の目に見えたということである。(二〇に同じ)
(附記)海上のかぜん長者については、こんな伝説が残っておる。この長者は女主であった。自分の居所から小道七十五里も隔った大槌の浜より潮水を汲取らせ、持馬七十五疋で毎日毎日それを運ばせて塩を焼かせた。その塩釜の跡もまだ土地に残ってある。又遠野の横田の町まで自分の家の門口から、白米を撤敷かせてその上を渡り歩き、少しも足に土を附けないことを自慢すると、隣村駒木の長者山口四郎兵衛というのが大きに嘲って、海上のかぜんも案外小身者だ。そんならおれの方では家の門から町まで、小判を敷いて足に土を附けないで往来して見せると、その通りにしたという話がある。いずれも横田まで、小道十里即ち一里半の路程である。
(五三)きたがめの山口の旧家孫左衛門という家には、若い女のザシキワラシが二人いると、久しく言伝えられておった。ある年同所の某という男、横田の町から夕方帰って来ると、溜場の橋というあたりで、見慣れぬ美しい娘ども二人に行逢った。何か物思わしげな様子で歩いて来るので、お前さんだちは何所から来て何処へ行くのかと問うと、おらは今まで山口の孫左衛門殿の家におったが、これから気仙の稲子沢へ行きますと言って行過ぎた。その後山口の家の主従三十人ばかり、茸の毒にあたって一夜のうちに皆死絶えたということである。(一三に同じ)
(五四)気仙郡盛町の在に、稲子沢という長者があった。奥州でも名うての長者であった。この家の瓦解したのはおおよそ百年も前のことかと思われる。あるいはそれよりも遅れておるかもしれない。この家の運勢の傾きかけたころであったろうか。一人のザシキワラシが、邸から出て、後の山の方へ行った足跡が、附いてあったということである。(二七に同じ)
(附記)この長者については、こんな伝説が残っておる。昔気仙稲子沢の某という者、ある年の正月の夢に、ある館の跡に三十三の花をつけた山百合があるから、その根を掘ってみろ、宝物が埋まっていると見て、妻を連れて旅へ出た。そして胆沢の郡生城寺館(今の永岡村字百岡にある)に着いて見ると、雪の折柄にも拘らず。その館跡に夢と寸分違わぬ三十三の白百合の花が咲いてあった。夫婦はその根元を掘って、黄金の玉(あるいは黄金の入った壷)を七つ得て、それより長者とはなった。子孫代々気仙稲子沢長者と呼ばれ、鈴木を姓とした。但し今は見る影もないという噂である。この辺では、気仙の稲子沢の寝手間取という俚諺がある。長者の屋敷には手間取共多く居り、中には病気といって仕事を休み、只賃を取っておる者も一日に一人や二人、ないことはなかったから起ったのである。胆沢郡水沢の塩釜神社に奉納した鉄の塩釜の縁には、奥州稲子沢の文字が、鋳られてあるということである。水沢の森口氏という人の母方の祖母の妹に大層美しい人があって、稲子沢長者の何代目かの次男へ嫁に行った。こちらから花嫁を送って行った人たちは、途中で出迎えを受けて、その場で先方から持参の衣類で、皆御殿風に装いを改めさせられた。なお道すがらの宿場宿場では、長柄の銚子で花嫁の一行を出迎えたそうである。いよいよ婿殿の屋敷へ着いてみると、一同はまず松の間というに通され次に竹の間、梅の間に招ぜられ、間毎間毎で主客共に松竹梅それぞれの模様の衣服に改め、器具粧飾も総て松尽くし竹尽くし梅尽くしであった。酒宴の時には二の膳のひらと茶碗とに、小判一枚づつ入れてあった。また附添人を労うために船遊山をした。その節祝として船頭たちに出した御馳走は、白米の握飯であった。この辺では米は常には食わさぬからである。そこで米どころの水沢から行った連中は、折角ここまで豪奢振を見せていたのに、握飯の御馳走では打毀しだと言って笑ったそうである。その婿殿は酒乱者であったので、後に離縁をして戻ったそうで、水沢に墓があるということである。(森口多里氏書翰)
(五五)ザシキワラシはほぼ以上の如く、奥州の諸処に亘って、オシラサマよりも数において遙かに多く、分布しているようである。なおこの外に、単にいるあるいはおったというだけの話で、私が聞いたものは左の通りである。
(イ)九戸郡江刈村字本村、村木義雄氏の家。多分童子であろう。枕返しなどもあるそうである。(四二に同じ)
(ロ)盛岡市内丸、内堀という家。童子である。現今バプチスト派の宣数師米国人某が住んでいる。(伊能先生話。大正八年六月某日。)
(ハ)稗貫郡外川目村、葛巻某家。童子。(大正八年二月十二日、同姓某氏話。)
(ニ)稗貫郡八幡村、某家。クラボッコ。(同地の人玉山君話。大正八年六月十七日。)
(ホ)気仙郡上有住村字奥新切、某家。枕返し。(同処の人立花某氏話。大正八年六月三十日、拙宅にて。)
(ヘ)気仙郡上有住村字甘蕨、和野某家。童子。(同村生れの菊池某女話。他は同上。)
(ト)気仙郡上有住村字十文字、吉田某家。童子。枕返し。(ホに同じ)
(チ)気仙郡高田町、大庄屋某家。童子。(同村石工逢阪某話。大正八年七月十三日。)
(リ)稗貫郡湯本村、阿弥陀某家。童子。(ハに同じ)
(ヌ)遠野、一日市町、明石屋伝兵衛家。童子。(この家は今はない。二七に同じ。)
(ル)遠野穀町。建屋某家。酒倉にいる。クラワラシ。(菊池君話。他は二九に同じ。)
(ヲ)遠野町、村兵某家。童子。(二七に同じ。)
(ワ)土淵村字栃内の一ノ渡、どびよう某家。枕返し。(二〇に同じ)
(カ)土淵村、佐々木万右衛門家。今その家知れず。あるいは万十郎か。(ロに同じ)
(ヨ)土淵村字山口、南沢三吉家。童子。(この家今はない。一三に同じ。)
(タ)土淵村字野崎、前川某家。枕返し。(同上)
(レ)松崎村字松崎、洞目木某家、枕返し。(ルに同じ)
(ソ)鱒沢村字下鱒沢、菊池清見氏。童子。枕返し。(この村に居た山林主事金野氏話。大正八年九月十八日、村の往来できく。)
(ツ)鱒沢村字下鱒沢、古屋敷、菊池某家。枕返し。(同上)
(ネ)綾織村字山口、某家、童子。(一に同じ)
(ナ)綾織村字上ノ山、上台某家。童子。(同上)
(ラ)綾織村字上ノ山、石関某家。形不明。(同上)
三 手紙で答えられたもの
私は前章のような奥州のザシキワラシの伝統を珍重し、出来得べくばより多くその分布を知りたいと思って、去年の冬頃から、あるらしい諸方へ問合状を出してみたのである。又それよりも先に、東京の中山太郎氏の話に、座敷稚子というものが、紀州の高野山にもおるということで、赤い衣物などを着た垂髪の童子で、折ふし大寺の座敷の障子を細目に開けて覗くものだというと聞き(後に聞くと、この話は大阪の新会社という雑誌にあったという)全く我が地方のザシキワラシそのままの事であるから、取あえずその実否を田辺の南方先生に伺うと、聞いたことがないとの御返事である。同じ紀州の有田郡の、森口清一氏からは、左の如き御返事を頂いた。これは参考のために、その要所だけを載せておく。
御来書に依れば、高野山にもザシキワラシがこれある由に御座候が、その後高野に関する図書四五種渉猟いたし候処、見当り申さず候。勿論小生の見たるは風土記や通念集の如き普通のものにこれあり候……就ては過日当地方の人にて、十数年来高野山の寺院に居住せし者より、左の如き話を聞及候に付、貴下御要求の話とは多少異りたるようにこれあり候へ共御知せ申上候。
昔高野山金剛三昧院に、一人の小僧これあり、住持外出する時は常に供に連れ行きおりしに、この小僧供すれば、如何なる暴風雨に会うも傘ささずとも濡れるということこれなく候いき。かくの如き事久しきまま住持いかにも不思議に思い、ある夜ひそかにその小僧の寝間に至り見るに、その形八畳の間に一杯ありしという。翌朝小僧は住持の居間に来りて暇を乞い、如何様になだめても、昨夜寝姿を見られたるより、一時も此所に留ること出来もうさずとて、引留を聴かず。さらば給金を取らせんと言うに、給金はいらぬ、その代りに庭の杉一本頂きたいと言う。住持承知すれば、小僧はその杉の木より天に昇りしという。但し右の事ありし年代は分り申さず候も、杉の木は今もこれあり、およそ一丈余もこれあるべく候。金剛三昧院が七百年来いまだ一度も火災に罹らぬは、この小僧の御影なりと言伝え、今は杉の木の下に祠を建て、朝夕供物を供えおり候。(高野山は火事多き所にて、七百年来火災に罹らざるはこの寺の外にこれなく候。)
この杉の木は只今にても神聖視し申しおり候。さればこの木そ汚せば跛者になるとの言伝え昔よりこれあり。明治三十年頃この寺に二人の小供あり、この話を聞き、何そんな事があるものかと小便を仕掛け候処、直ちに二人とも跛者と相成申候。これは実際の話にて、その跛足となりし人は、小生と同村同字の人、一三四歳まで普通の脚にてこの寺におりしに、この時より不具者となり、今に村に暮しおり候。今一人も目下小生の村に居住致居り候。
右の話をしたる上田稔氏というは、小生と同村同字の人にて、先かかる事柄をよく聞覚えおる人にこれあり候えども、高野山に限らず、当地方には家に化物出る話は沢山これあり候えども、ザシキワラシはこれなく候。恐らく和歌山県にはこれなきかと愚考いたし候。
右のような次第で、ザシキワラシ類似のものが、まず唯一箇所あるらしいという紀伊国にも、どうやらないようにも思われる。(もっとも柳田先生の説だと、本にはなくとも実際にはあるかもしれぬと言われる。)そこでひとまず手近な地方で、系統の上からもどうしてもあるらしく想像される奥羽七ヶ国の各地へ、尋ねてみることにした。その返事の手紙に由って、大体この物の分布を調べてみたのである。勿論狭い交通の範囲に限られている。これから更に大いに尋ねてみねばならぬ。
あるという地方
(一)陸前登米郡南方村字元南方の原、佐々木林之助という人の家には、昔からザシキワラシがいるという噂があった。今から十四、五年前、この家で、屋根葺替が終った日の夕方、齢頃十二、三とも思われる一人の少女が、丘に架渡してある足代板の上を、自由自在に走り廻っていた。村の人だちは多勢でそれを見たということである。
この家では、ザシキワラシは常にでい(奥座敷)にいると信じて、床の間に茶碗に水を入れて供えておく。時々何物か座敷を掃く音などがするが、家の人だちは少しも怖がらぬということである。これは同家主人の直話である。
しかし近隣の者の話だと、昔は佐々木方にはザシキワラシがおったというけれども、只今では出ぬとの評判である。同家のでいにも、今は子供等まで臥ているとのこと故、出ぬのが事実ではなかろうかと言う。(同村、高橋清次郎書翰。大正八年二月十九日附。)
(二)陸奥上北郡野辺地町に、正徳の頃、田中清左衛門という近郷唯一の長者があった。この家の家運傾きかけた際、ある夜ザシキワラシが奥座敷で、帳面を調べていたのを見た者があったとのことである。それからというものは、とかく面白からぬことばかり続いて起ったが、主人の豪奢振りは少しも止まなかった。ある日などは、持船が三艘難破したという報があったにも拘らず、三味太鼓で遊興三昧をしていると、引続いて十何艘破船していよいよ悲運に陥ったということである。口碑に依ると、この長者は子供に小判に穴をあけて、がらがらを造って持たせたなどと伝えておる。そのザシキワラシは、ごく小さな童子で、散切頭の男の児であったそうである。(同地、松内源次郎氏書翰。同上二月三日附。)
(三)陸中東磐井郡千厩町の、中上という家に今から五十余年前、ザシキワラシが出始めた。刻限はおおよそ夕方の戸締り頃で、座敷をしたしたと歩き、あるいは這いあるいは柱に縋ったりなどしている。家の人だちはあまり気味が悪いので、親類近所の者を頼んで来てもらっておると、そんな夜は決して出なかったということである。この家は酒造家であったが、とうとう破産したそうである。(同郡門崎村、島畑隆治氏手紙、大正八年二月から四月までの通信。)
(四)東磐井郡八鉢村に、岩山という有名な酒屋があった。今から二十八年前の八月ある夜、座敷の襖を開けて出て来た一人の童子があった。家の主婦がそれを見て、誰だと声をかけたが、返事をしなかった。怪しく思って寝ている人だちを起し、共に方々をよく見廻ったけれども、既にその姿が何処にも見えなかった。戸締りを見るに、その座敷の襖ばかりが開いていて、他には何の事もなかった。ザシキワラシだろうと語り合ったそうだが、この家にはその一夜だけで、後は何の話もなかった。近年になってから破産したということである。(同上)
(五)東磐井郡松川村の岩ノ下に、店子三十余軒を有する旧家がある。この家には古くからザシキワラシがおるとの言伝えがあった。夜ばかり出るもので、その姿等は判明していないけれども、ある時は入道坊主のようであったとも言い、又ある時には十二、三歳のザシキワラシであったともいうのである。他所の者宿れば床の上から転ばされたり、枕の方向を換えられておったりするので、気味が悪くて宿ることが出来なかった由である。
ザシキワラシとは、この地方で頭の周ばかり剃り、上部の髪を残しておくものをいうのである。又はザンギリコともいう。(同上)
(六)東磐井郡大原町の在、興田村中川の奥にある旧家、懸田卓治という人の家にも、ザシキワラシがおったそうである。来客などが座敷に寝ていると、枕返しをやって、東向が西枕になっていたりする。又座敷の中を、妙な声で鳴廻ったり、天井板に砂でも撒散らすような音を、させることもあったという。
この家のザシキワラシは、散切髪の皿頭で、五、六歳位の子供のようであった。形は河童に似ていたともいう。例の狢などが化けたものだろうという説もある。
又大原町の、旧藩時代の代官屋敷にもいたというが、前と同じ物かどうか分らぬ。(大原町、鈴木文彦氏報。大正八年一月二十八日附。)
(七)胆沢郡永岡村字永徳寺、堂の前の道化屋敷とかいう所に、二百年ばかり前の事か、夜の子の刻になると、座敷の床の前から、黒い半衣物を着て現れ出て、柄杓をもって水を下されという、怪物があったという。家の人は柄杓の底を抜いて与えると、暫くぐずぐずしているが、また出た処に帰って消失せたということである。柄杓の底を抜いて遣ったのは、そうせぬと水で悪戯をするからである。この家はそんな物のために、終に月行院という法印となったということである。
右の怪物は何でも半童形の物であったらしいが、この地方ではザシキワラシとはいわず、カラコワラシといっておる。この家のもそれであった。(此郡水沢町、鈴木貞太郎氏報。同上二月三日附。)
(八)西磐井郡平泉村高館、小松代粂三郎の家にも、昔怪しいものが出現したことがある。委しいことは分らぬが、これはワラシではなく、一種の剣舞風の装束をしたものであったという言伝えである。もっともこの話は古いことであるらしい。(同上)
(附記)伝説に、昔平泉の判官館(すなわち高館)が落城の時、数々不思議な事が現れて関東方の軍勢を悩ませた(平泉清悦物語)。その中に館の床下から、異様な風体をした怪物の兵が現れて、髪を振乱し剣を翳して大いに戦ったと言えば、前記の物もその口碑に基いた話であろうか。当国各地の夏秋の祭礼などに行なわれる、剣舞と称する一種の舞は、即ちその故事に因んだもの、という風にも言伝えられている。
(九)羽後北部のある町で、工藤某という人の叔父が若年の時、ザシキボッコに遭遇したことがあるそうである。深夜突然に布団をはがれたので、驚いて起上ると、二尺四、五寸ばかりな真赤な顔をした子供が、座敷中をとたとたと歩き廻っているのを見たという。
言伝えに依れば、一本の柱に四方から敷居が寄った所の室に出るそうである。しかし在方の家には、その様な箇所のあるのがかえって普通であれば、同じ長さの敷居の寄合う所、即ち同じ大きさの座敷が四つ隣接している所でないかという。この建方も稀にはあるが、必ずザシキワラシが出るとも限らぬのを見れば、その中心の柱に何か尋常でないもの、例えば逆柱などの場合ではなかろうかともいうが、これも推量ばかりで確かではない。(陸中和賀郡黒沢尻町、鈴木隆太郎氏状。同一月二十九日附。)
(一〇)和賀郡黒沢尻町附近では、ザシキワラシをザシキボッコという。座敷の建方に由って出るものだ、といわれている。すなわち一本の柱を真中にして、四方に四つの座敷を造作した家に出現するもので、若し人が宿っておると、その寝沈んだ時分に出て来て、布団などを剥いで消失せるということである。こうした座敷の建方が在郷方にあったが、既に火事で焼けたそうである。(黒沢尻町、豊田啓太郎氏状。同二月五日附。)
(一一)和賀郡黒岩という村の渡場に、何れも花染の衣物を着た十二、三ばかりの少女が二人で、二子村の方から来て川東へ渡って行ったことがある。あまりその様子が変なので、ある人が、お前だちは何所から来て何処へ行くかと尋ねたら、娘どもは、今まで二子の高屋にいたのだけれども、高屋は貧しくなっていられないから、これから平沢の長洞へ行く所だと言った。長洞の家にはその頃からザシキワラシがいるということである。
そのザシキワラシは、長洞の家の相続人にしか見えない。それも一生にただ一度しか見えぬという。長洞の家の資産は上りだということである。高屋長者はその後は目に見えて貧しくなって、今は屋敷跡ばかり残っている。(稗貫郡八沢村、吉川一郎氏書状。同二月八日附、外一通。)
(一二)和賀郡成島村の、前尻という家には、今でもザシキワラシがいる。ある時裁縫をして歩く婆さんがその家に泊ったら、五、六歳ばかりの散切頭のワラシが、とたとたと座敷を歩き廻って、淋しくて寝られず、夜中に外の家に宿替をしたということである。その老婆は今も生きていて、やっぱり人の仕事などして方々を歩いている。
この家のザシキワラシは、何時でも又何人にも見えるということである。この辺ではザシキワラス、又はザシキボコと呼んでいるそうである。(同上)
(一三)稗貫郡花巻町、里川口辺にも、クラワラシ又はクラボッコというものならあるということである。(その地の人、島倉吉氏報。同二月八日附。)
(一四)紫波郡長岡村に、某という農家があった。今から二十年程前のある盆の頃橘某という人を始め四、五人の青年が、この家に泊ったことがある。ところが誰言うとなく、この家の奥座敷にザシキワラシが出ると言出したので、その中の一人は、臥床をその座敷へ移して寝た。その夜は月夜で座敷中明るかったが、とろとろと眠りかけた頃、何処からともなく一人の童子が出て来て、初めのほどは遠慮をしているようであったが、遂にその若者の寝床の上を飛越え、跳廻り、幾度も幾度も悪戯をするので、堪らなくなってその座敷から這出して、みんなと共に一夜を明したということである。これは橘氏自身の実験談で、この人は当年四十二歳の人である。その童形の物は、肌の色が人の通りであったことをも、たしかに見たということである。(此郡煙山村、小笠原謙吉氏状。一月二十九日附。)
(一五)紫波郡煙山村、小笠原謙吉氏の祖母君の話だと、ザシキ小僧は古い大きな家にいるもので、夜炉に出て火を起したりする、顔が赤いものだということである。この地方では、ザシキワラシは何物だとも知られていないが、狢であろうという説もあるという。(同上)
(一六)盛岡市外新庄村の農家、某の妻女の直話である。この人は今年三十歳で子供も三、四人持っている。今年の正月頃から、毎夜何物とも分らない物が、夜半の一時頃になると、この女の臥床の周囲や布団の上を、小刻みな足で歩き廻った上、遂には懐などに這入るので、傍の夫を呼起し、その正体を見定めようとしても、夫の目には何物も見えないのである。二時三時にもなって、疲れてうとうととすれば、手足をつッついて目をさまさせ、全く安眠が出来ない。そのために食欲も減ずるので、そのままにしておいて生命に関するようなことがあってはならぬと、所の易者や巫女などに聞けば、飯綱だと言うもあり、又は古い悪い布団を買入れたためだから、そんな物を売却すれば何事もないという者もあって、即時古衣物などは売払ったけれども、依然として魔障は止まぬのである。そこで五、六日前からある婆さんを頼んで来て、一時頃から張番をさせ、念仏を称えさせている。そうすれば何事もなく眠られるのである。近所の人の話だと、その婆さんが張番した時に煙のようなものが立上ったなどといっておったけれども、真偽は分らない。あるいはザシキボッコという物のしわざかもしれない。(盛岡加賀野新小路、某女報。二月五日附。)
(一七)盛岡市紺屋町の某家には、ザシキボッコと言う物が出るということである。(九に同じ)
(一八)盛岡市外津志田生れの一老婆の、木村氏の所に奉公しておる者のいうには、わたしはザシキワラシは知らぬが、クラワラシならあるものだと言ったとのことである。
又岩手県庁の伊東氏の召使の老婆なども、遠野物語にあるようなザシキワラシなら、こちらにもあると語ったそうである。これも盛岡在の者であろう。(盛岡高等農林学校、木村教授報。二月五日附。)
(一九)陸前気仙郡上有住村、佐々木時輔氏からの手紙に依ると、ザシキワラシというものは、この郡の内にも二、三箇所おったということを聞いたが、今は場所を失念したということである。(二月二日附書状)
(二〇)遠野町附近において、ザシキワラシに対する故老の概念はおよそ左の如くである。
一 ザシキワラシは体軀小さく、顔の色が赤い。
二 富裕な旧家を住処とする。成上りの家には決しておらぬ。
三 もしザシキワラシが退散の事があれば、その家の衰える前兆である。
四 時として出てその家の人と嬉戯することがあるが、家人以外の目には見えぬという。
(伊能嘉矩先生書状大意。二月一日附。)
(二一)上閉伊郡上郷村佐比内の白鳥、石田徳三郎という人の母人、名をももといい、今年七十二歳で健在である。まだ子供の時にザシキワラシを見たことがある。ちょうど六つ位の体で、金時のようなものであったとのことである。(此村沢田重蔵氏状。三月三十一日附。)
(二二)同じく上郷村佐比内の川原、鈴木八太郎という人の家は元は医者であった。この家の奥座敷には、今日でも人がどうしても寝着かれぬ。但しある畳一枚の上だけである。他の例のように、床の間の前の畳であろうか。(同上)
(二三)上閉伊郡附馬牛村、萩原早見という老人の話。
一 ザシキワラシは雌雄の別があって、雌の方が数において多いということである。
二 髪はちゃらんと下げていて、光沢のあるきれいなものだという。
三 髪には綺麗な飾を附けていることがある。例えば友禅の小布片のようなものをつけている。
四 顔は赤い方が多いが、時には真青なものもあるという。
五 身丈は二、三歳ばかりの子供位だという。
六 衣服は赤いものを好んで用いているという。
七 歩く時には衣摺の音がする。その音はちょうど角力の廻しの摺れる音のようだという。
八 足跡には踵がないという。
九 歩く時には必ず連があって、ただ一人で歩くようなことは稀だという。
一〇 出現するのは多く夕方である。
一一 室内を歩くには通路が定まっていて、その以外には決して歩かない。人がその通路を知らずに寝るようなことがあれば、きっと唸されたり、又何か悪戯をされるという。
一二 食物は小豆類を好んで食するということである。(遠野町、松田亀太郎氏書状。五月十一日附。)
ないという地方
ザシキワラシにつき、左の地方の諸君には手紙で御尋ねしたが、知らぬという返書であった。その中地名の下に名を書かぬ分は、まだ返事の来ぬものである。
福 島 県
磐城石城郡草野村 (高木誠一氏)
岩代耶麻郡関柴村 (菊池研介氏)
同南会津郡館岩村
同信夫郡飯坂町 (佐藤喜平氏)
宮 城 県
陸前牡鹿郡石巻町 (毛利総七郎氏)
同加美郡新田町
同亘理郡荒浜村
同本吉郡新月村 (熊谷武雄氏)
同郡気仙沼町
山 形 県
羽前西村山郡溝延村字田井 (真木伝五郎氏)
同北村山郡大倉村
羽後飽海郡酒田町 (藤井孝吉氏)
秋 田 県
羽後仙北郡大曲町 (田口謙蔵氏)
同郡長信田村字小神成 (高橋弥五郎氏)
同北秋田郡荒瀬村字野尻
秋田市楢山南町
青 森 県
陸奥三戸郡八戸町鳥谷部町
岩 手 県
陸奥二戸郡浄法寺村 (小田島理平治氏)
陸中下閉伊郡岩泉村 (熊谷某氏)
同西磐井郡一ノ関町 (金野某氏)
同郡一関町 (佐藤猛雄氏)
同胆沢郡水沢町 (森口多里氏)
同上閉伊郡小友村 (佐藤喜代志氏)
四 関係あるかと思われる事項
ザシキワラシと所作がよく似ていて、その名を帯びぬものの中、第一に著しいのは、オクナイサマ又オクナイガミである。これも全く家に属する神の一種であって、ザシキワラシに次いで種々雑多な動作をするのである。しかしザシキワラシは、単なる悪戯か、又は主家の盛衰につれて、往々ごく冷淡に出ることが多いのに反して、オクナイサマは神という名に背かず、常に一家の守護利益のためにのみ現れる。この点において始めて前者と異なるのである。
今その一、二の例を記してみるに、耳で聞いた第十一番の話に紛れ入った土淵村柏崎の、片岸九郎氏の火事の時のオクナイサマの働き、又は同家の田植童子の話(遠野物語)などを始め、私の近所山口の南沢三吉氏の家の盗人を捕押えた童子神、すなわちこの家のオクナイ神がある。又下閉伊郡織笠村、たっこノ木の彦松という家のなどは、家人の留守中には馬舎の前に積んでおく飼草を、あれなかれ入れて馬を養い、又夕方になると、庭に並べた莚四、五十枚の乾物を、ちゃんと畳んで納屋にしまい込んでおきなどするという。その時には家人は座敷口の縁側から、オクナイサマどうも有難うござんしたと、御礼を言うのが例であった、この神は折々十一、二歳の童子の姿で、家人の目に触れたものだと言うことである。
第二に、その性情で似ているのは、オシラサマである。この神は賞罰ともに、妙に厳重なものであって、やはり単純なザシキワラシとは、自然に信仰をも異にしてはいるけれども、オクナイ神と同じく、絶対に家屋内に附属し、かつ折々童子の姿を現し、子供等と戯れ、又これを守護する点において、すこぶる相似たるものがある。
第三に言うべきは、悪い畳、すなわち畳転がし、枕返し、逆柱の類の俗信である。これらは何処でもザシキワラシと混同せられているけれども、その由って起る所は、全く別途であろうと思われる。
第四の問題は、圧殺せられた赤子の霊魂、巫女の言葉で、若葉の霊魂という物の類である。嬰児の圧殺は昔はほとんど常の事の如く考えていたものらしく、殺せば決して屋内より出さず、必ず土間の踏台の下か、あるいは石臼場のような、繁く人に踏みつけられる場所に埋めたものである。生後一年位で死んだ児も逆児といって、その屍を外に出すことを非常に忌み、必ず右同様の場所に埋めたものであるが、それらの霊魂は睡眠病や首下り病の、神となると信ぜられているのである。外観ほとんど全くザシキワラシと、関係はないようであるけれども、子供ということ、屋内という所から、思いついたまま言っておく。
第五に言いたいのは、不時に死に、又は昔無惨な最後を遂げた童子の霊魂は、そのまま屋内に潜み止り、主に梁の上などに住んでいるという俗信である。その著しい例の一、二を挙げると、土淵村字火石の、庄之助殿という家で、ある年の九月二十九日の晩、刈上げの餅を一族二十余人が寄集って食べている最中に、不意に桁の上から女子の小櫛が落ちて来た。これはと皆が驚いて見上げたが、更に何物の影も見えない。しかしある者の目には、髪を乱した女子の顔が、梁にくっついていて、凝乎と下方を視つめているのが、たしかに見えたということである。これはその時そこに居合せて、その物を見たという分家の老人の直話である。何故にそういう物がこの家におったかというに、ある飢饉の年に、何かの訳で召使の少女が餓死をしたことがあったが、その娘の魂魄が、今だに梁桁の上に留っているのだということであった。
又同村字山口、薬師堂なにがしという家では、天明頃の飢饉の時に、盗癖のある子供があって、何かにつけ苦情が村方から持上るので、家族親類相談の結果、その子供を父親に山へ連出させ、岩の上に労れて眠ったのを、斧でもって斬殺させた。父親が斧を頭に切込んだ時、その子供は飛起きて、父は何をすると言うと、父親はその訳はあの世で聞いてくれと、更に烈しく頭を打砕いたのである。その子の霊魂が家に帰り、梁にくっついていて、今でも折々悲しそうな声で、最後の語をつぶやいていることがあるといわれている。
又同村字栃内の久手、山下某という家でも、やっぱり子供の霊魂が梁の上に住んでいる。ある時この家に念仏講があった際に、村の人だちが座敷に入って念仏をはじめ、一座声を揃えて、餓鬼の念仏なんまみだと言えば、梁の上でも子供の声で、餓鬼の念仏なんまみだと言う。また下で南無阿弥陀仏と言えば、梁の上の童子も、同じく南無阿弥陀仏と称えるので、人皆色を失ったということである。この家の童子なども、天明かいつかの飢饉の時に、盗癖か何かの故あって、座敷のきつの中に入れ、上から堅く蓋をして蒸殺したと言われてある。この童子の魂魄ははなはだよくザシキワラシに似た動作をして、折々客人などを驚かすということである。
第六には、農家の愛娘又は若嫁御などで、色白く秘蔵がられて、座敷にばかりいる女性のことを、あれはザシキワラシみたようななどというが、ザシキワラシの本来は、実はこんなものだという説もある。これと同じく、若者の座敷にばかり入り込んでいて農業を励まぬ者を、オコナイサマだなどと嘲けることもあるのである。
第七に、隣邦民族において類似の例を聞いたままにちょっと蛇足すると、朝鮮ではタイヂュといって、一種の屋内怪物がいる。我が奥州の念仏童子などと同じく、梁の上におって時々人語を発するという話もある。幼女の精霊だと信ぜられているそうである(伊能嘉矩氏談)。又北海道アイヌ族間には、アイヌカイセイと称する物、空屋古家などの中に現れる。アツトシのぼろ衣物を着て出で、よく睡眠者を魘うてその胸や首などを圧し付けると(吉田巌氏報示)いえば、何となくまたわがザシキワラシに髣髴するの観がある。
以上の諸類例は、単に私だけの連想である。似て非なるものであるかもしれぬ。専門の学者の研究を待つべきものである。
ザシキワラシの種類及別名表
ザシキワラシ
ザシキボッコ
ザシキボコ
ザシキモッコ
ザシキバッコ
カラコワラシ
クラワラシ
クラボッコ
コメツキワラシ
ノタバリコ
ウスツキコ
チョウピラコ
ホソデ
ナガテ
ザシキワラシ出現の場所及家名表
宮 城 県
陸前登米郡南方村字元南方、原。佐々木林之助家。少女。三ノ一
岩 手 県
陸前気仙郡高田町。大庄屋某家、童子。 二ノ五五チ
同郡吉浜村。新沼某家。童子。 二ノ三九
同郡盛町在。稲子沢家。童子。 二ノ五四
同郡上有住村字奥新切、某家。童子、枕返し。 二ノ五五ホ
同村字甘蕨、和野某家。童子。 二ノ五五ヘ
同村、某所。童子。 二ノ三八
同郡下有住村字十文字、吉田某家。童子、枕返し。 二ノ五五ト
陸中東磐井郡千厩町、中上某家。童子。 三ノ三
同町、代官屋敷。童子。 三ノ六
同郡八沢村、岩山某家。童子。 三ノ四
同郡松川村、岩ノ下某家。童子。 三ノ五
同郡興田村字中川、県田某家。童子。 三ノ六
同西磐井郡平泉村字高館、小松代某家。怪物。 三ノ八
同胆沢郡永岡村字永徳寺、堂の前。道化屋敷某家。童形(?)。 三ノ七
同江刺郡田原村字大田代、紺野某家。童子、枕返し。
同郡稲瀬村字倉沢、及川某家。童子、米搗ワラシ、ノタバリコ。 二ノ四四
同和賀郡二子村高屋、某家。少女二人(退転)。 三ノ一一
同和賀郡立花村字平沢、長洞某家。少女二人。 三ノ一一
同郡成島村字前ノ尻、某家。童子。 三ノ一二
同郡藤根村、藤根某家。童子。 二ノ四三
同郡黒沢尻在、某家。(不明)、枕返し。 三ノ一〇
同稗貫郡外川目村、葛巻某家。童子。 二ノ五五ハ
同村、某家、童子。 二ノ四〇
同郡八幡村、某家。クラボッコ。 二ノ五五ニ
同郡花巻町里川口、某家。クラボッコ。三ノ一三
同郡湯本村、阿弥陀某家。形不詳。 二ノ五五リ
同紫波郡佐比内村、畠山某家。童子。 二ノ四五
同郡長岡村、某家。童子。 三ノ一四
同郡煙山村。(概念)、童子。 三ノ一五
同郡見前村字津志田、某家。クラボッコ。 三ノ一八
同盛岡市外新庄村、某家。(?)。 三ノ一六
同市内丸、内堀家。童子。 二ノ五五ロ
同市内丸、栗山家。童子。 二ノ四六
同市紺屋町、某家。童子、ザシキボッコ。三ノ一七
同九戸郡侍浜村字南侍浜、九慈某家。童子、枕返し。 二ノ四二
同郡江刈村字本村、村木義雄家。童子(?)。 二ノ五五イ
同下閉伊郡小国村字桐内、某家、童子。 二ノ四一
同郡小国村、道又家。女性二人。 二ノ五二
同上閉伊郡建曾部村字芋野新田。多田某家。童子。 二ノ四八
同郡宮守村字塚沢。太田代清八家。同形、半童半獣形。 二ノ五〇
同村字粡町。河野某家。童子。 二ノ四九
同郡鱒沢村字山岸。某家。童子、枕返し。 二ノ七
同村字上鱒沢、こすず某家。童子。 二ノ六
同村字下鱒沢、菊池清見家。童子、枕返し。 二ノ五五ソ
同村下鱒沢、古屋敷。菊池某家。童子、枕返し。 二ノ五五ツ
同郡綾織村字砂子沢。多左衛門家。童子。 二ノ四
同村字山口、某家。童子。 二ノ五五ネ。
同村字大久保、水口。某家。童子。 二ノ二、二ノ三。
同村字日影、菊池左吉家。童子。 二ノ一
同村字二日町、二日町某家。侍姿。 二ノ五
同村字上ノ山、上台某家。童子。 二ノ五五ナ
同村字上ノ山、石関某家。形不明。 二ノ五五ラ
同郡遠野町字六日町、松田某家、童子。 二ノ三七
同町、高室武八家。童子、クラワラシ。 二ノ三四
同町元町、南部家。侍姿
同町新町、大久田某家。少女。 二ノ三六
同町穀町、建屋某家、クラワラシ。 二ノ五五ル
同町一日市町、明石屋伝兵衛。童子。 二ノ五五ヌ
同町一日市町、古屋酒店。童形(?)。 二ノ三五
同町大工町、佐々木某家。童形、半童半獣形。 二ノ五一
同町字砂場町、元御倉。童子。 二ノ二四
同町、村兵某家。童子。 二ノ五五ノヲ
同郡青笹村字中下、菊池某家。童子、クラワラシ。 二ノ三三
同村字関口、菊池某家。クラワラシ。 二ノ二九
同郡上郷村字佐比内、白鳥。石田徳三郎家。童子。 三ノ二一
同村字佐比内、川原。鈴木八太郎家。童子。 三二ノ二
同村字中沢、菊池鳥蔵家。機織る音。 二ノ二八
同郡甲子村、野田某家。形不詳、枕返し。
同郡釜石町字沢、新倉屋。男女二人。 二ノ二七
同郡栗橋村字砂子畑、清水六兵衛家。老婆。 二ノ二五
同村字栗林、小笠原嘉兵衛家。童子。 二ノ二六
同郡土淵村字栃内、酉内。佐々木某家。童子、絵姿。 二ノ二〇
同村字栃内、一の渡。ドビョウ家。童子。 二ノ五五ワ
同村、佐々木万右衛門家。形不詳。 二ノ五五カ
同村字栃内、爪喰。佐々木三右衛門家。童子、枕返し。 二ノ一九
同村字栃内、在家権十郎家。童子、枕返し。 二ノ二二
同村字栃内、火石、北川庄之助家。童子、老婆。 二ノ一五、一六
同村字栃内、火石、長田某家。長手。 二ノ一四
同村字栃内、火石、北川家。細手長手。 二ノ一三
同村字栃内、田尻。古屋敷万十郎家、童子(?)、二ノ一八
同村字栃内、田尻。厚楽某家。枕返し。 二ノ一七
同村字山口、瀬川九平家。 二ノ一〇
同村字山口、菊池孫左衛門家。少女二人、枕返し。 二ノ五三
同村字山口、南沢三吉家。童子。 二ノ五五ヨ
同村字山口、菊池慶次郎家、形不詳、クラワラシ。 二ノ三〇
同村字野崎、前川徳蔵家、枕返し。 二ノ五五ノタ
同村字野崎、久手、山下某家、念仏童子。 四ノ五
同村字柏崎、片岸長九郎家。童子。二ノ一一
同村字本宿、栃内万之助家。枕返し。
同村字本宿、三之助家。童子。 二ノ一二
同村字土淵、阿部興平家。枕返し
同村字似田貝、石田。似田貝某家。童子。 二ノ二二
同村字飯豊、今淵勘十郎家。童子、枕返し。 二ノ八、二ノ九
同村小学校。童子。 二ノ二三
同郡松崎村字海上、菊池万兵衛家。童子、(退転)。二ノ三二
同村字海上、喜六家。童子。 二ノ三二
同村字海上、かぜん長者。少女二人、(伝説)。 二ノ五二
同村字松崎、洞目木家。形不詳、枕返し。 二ノ五五レ
同村字宮代、某家。童子。 二ノ三一
同郡附馬牛村字小村、新田某家。童子。 二ノ四七
青 森 県
陸奥上北郡野辺地町、田中清左衛門家。童子。 三ノ二
秋 田 県
羽後北秋田郡某村。童子、枕返し。 三ノ九
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