諸君よ、余が最初妖怪研究に着手しましたは、明治十七年のことにして、爾来材料を拾集するに十年の星霜を重ね、廿六年に至て始て其研究の結果を世に公にする様になりました。即ち妖怪学講義録と題するものが、正しく其結果であります。此講義録は元来四十八号二十四冊より成りたるも、昨年之を合綴して六大冊に致しました。其中には四百余種の妖怪事項を集めて、之に一々学術上の説明を与え、古今民間に伝れる妖怪は、大抵網羅し尽した積りであります。然るに其全部の紙数二千六百頁に余る程の頗る浩瀚の大書籍なれば、世間よく之を通読するもの至て少ない。依て余は此に其研究結果の一端を摘み出して、世人に紹介することに定めました。
世人多く余が妖怪研究をもって物ずきか慰みか道楽の様に申すものがありますが、決して斯る次第ではありませぬ。畢竟此一事に貫き光陰を十年以上費やせしは、深く思う所ありてのことであります。斯く云うと何にやら御釈迦様を気取る様で可笑しく感ずる人がありましょうけれども、余は幼少の頃より死は何物ぞ、生は何物ぞ、天災は何の為に起り、病患は何の為に生ずるや等の問題が常に心にかかり、早晩之を研究してみたいとの念より、妖怪研究の志を起す様になりました。人間は生きているに衣食住が一番大切であると申すけれども、衣食住よりモット大切のものは、安心すると云うことであります。犬や猫は動物であるから、飲たり食たりすれば其外に何等の望もありませぬけれども、人間は動物より一段階級が進で居りますから、飲み食い計りでは満足致しませぬ。必ず衣食住の外に安心したいとの一念が、常に動き出して止めることが六ヶ布い。如何に貧困にして毎日の糊口に逐わるる様な身分でも、一日として安心を願わざる者はありませぬ。左れば犬や猫は飲食的動物人間は安心的動物と異名を付けても宜しからんか。兎に角人間と獣類との別は、安心を願うことを知ると知らざるとによりて定むることが出来ます。
諸君は彼の道に太鼓を叩きて題目を唱え、手に御幣を握りてトオカミを叫び、観音参詣の老婆が一文ずつ溜めたる金子を中店の売卜に費やし、天理信仰の病人が祖先伝来の財産を天輪王の御水に傾け、或は成田の不動に断食の願を懸け、或は川崎の大師に日参の誓を立て、或は災天を侵して高山を攀じ、或は厳冬に際して冷水に浴し、或は伊勢参宮、四国巡礼、或は京参り大和廻り等は何の為であると考えますか。みな安心したい為ではありませぬか。人間に安心する道を求むる念の切なること此通りであります。今余が妖怪研究は斯る切要なる安心の道を講ずるものなれば、全く無用と申すことは出来ますまい。
民間にて一般に用いきたれる御水や御札や或は禁厭の類までも、皆人をして安心せしむるを目的とするに相違なけれども、訳も道理も分らずに盲目的に之を用うるからして、一時の後は忽ち心が動き出してさらに大に迷う様になります。故に此の如きは真の安心とは申し兼ねます。而して真の安心は必ず訳や道理の分った方法に依るより外はありませぬ。殊に今より後は民間の教育学問が一体に進で来ますから、訳道理の分らぬことを聞かしても、誰れも信ずるものがありますまい。夫故に今後の安心は必ず道理に本き、学問に考えて説明したるものでなければ、役に立たぬと思います。是れが余が妖怪事項を集めて其説明に着手したる次第でありますから、予め御承知置きを願います。
段々沢山なる妖怪の種類を集めて研究して見ると、色々面白い事が出て参ります。社会の内幕や人情の秘密が皆分る様になりて来ます。言葉を換えて申せば人の心を解剖して見ることが出来ます。表には玉の如く月の如く立派に紳士然たる顔を装て居る人が、其心の中を探り見るに土の如く芥の如く至て不潔なる魂情が隠れて居ることが分ります。実に可笑しくもあり、気の毒でもあり、憎らしくもあり、可哀そうでもあります。左れば妖怪研究は如何にも不思議なものであると考えます。是れは人心の秘蔵を開く唯一の鍵と申して宜い。局外の者に取ては妖怪などは社会現象中の一小事の様に見ゆれども、間口は狭くても奥は千畳万畳敷でありて、実に広大無辺の研究であります。何と申しても人間の心全体が、妖怪の幻灯仕掛に出来て居りますから、一寸心の燈を點じても、直ちに色々の妖怪が顕れて来ます。故に社会万般の現象は大抵皆妖怪の現象と申しても差支ありますまい。諸君よ、ナント妖怪の学問は滅法界もない広大の研究でありて、実に驚く計りではありませぬか。
偖て妖怪の種類を挙て申さば、四百五百乃至千以上もありて、夥しきことでありますが、余は之を実怪と虚怪との二大類に分けました。更に之を細別すれば、実怪の方には真怪と仮怪との二種あり、虚怪の方には偽怪と誤怪との二種ありて、偽怪は一名人為的妖怪と云い、誤怪は一名偶然的妖怪と云い、仮怪は一名自然的妖怪と云い、真怪は一名超理的妖怪と云います。若し超理的妖怪より論ずれば独り人間社会のみならず、宇宙間の事々物々一として妖怪ならざるなき程に至ります。天地已に一大妖怪なれば、其間に現ずる森羅の諸象は元より妖怪の現象にして、一滴の水も一片の雲も皆妖怪なりと申して宜い。何ぜなれば超理的妖怪とは不可思議不可知的の異名でありて、事々物々若し其根源を窮れば皆不可知的に帰する様になります。諸君は、かの笑うが如き春山の景中に不可思議の霊光を浮べ、歌うが如き秋水の声裏に不可知的の妙味を含むを知りませぬか。誰人も其心中に一たび哲眼を開き来らば、見るもの聞くもの皆超理的真怪となりて現るる様になります。妖怪研究も此点まで窮め尽さなければ、真の面白味は知れませぬ。然し世間の者に此様な話をして聞かせても、所謂馬耳東風の類にて、サッパリ感じませぬは実に困たものであります。若し強て聞かすればビックリ仰天して逃出す計りであります。夫れは其訳でありて、世間の者の妖怪と思うている事柄は、余が所謂偽怪誤怪若くは仮怪に過ぎませぬから、仰天するのは強ち無理とは申されませぬ。依て暫く真怪の話はさし措き、専ら世間普通の偽怪誤怪に関する話を致しましょう。
偽怪誤怪の話をする前に、一応其説明を与えなければなりますまい。先ず偽怪とは人の工夫より色々作り出したる妖怪にして、或は利欲の為、或は政略の為、或は虚名の為に無き妖怪を有る様に云い触らし、針小の妖怪を棒大に述べ立て、一犬虚を吠て万犬実を伝うるなどの類は、皆偽怪と申すものであります。世の中には此種類最も多けれども、余り巧に出来たる分は、偽怪の化の皮を現さずに、真物となりて伝りて居ります。次に誤怪とは妖怪にあらざるものを誤り認めて妖怪となせるの類にして、暗夜に木骨を鬼と認め、路上に縄を蛇と誤るも、其一例であります。次に仮怪とは之に物理的妖怪と心理的妖怪の二種ありて、物理的妖怪とは狐火鬼火の類をいい、心理的妖怪とは幽霊狐憑の類を申します。次に真怪の事は既に説明したから、再び述ぶるに及びませぬ。以上四種の中偽怪仮怪真怪をもって世界の三大怪と致します。其時は誤怪は偽怪の中に合て別に立てませぬ。学問上より世界を見る時は、人間界、自然界、絶対界の三種に分けますが、此三種は正く余が所謂三大怪と合する分類であります。即ち偽怪は人間界の妖怪、仮怪は自然界の妖怪、真怪は絶対界の妖怪であります。故に偽怪を研究するときは社会人情の秘密を知ることを得、仮怪を研究するときは万有自然の秘密を解くことを得、真怪を研究するときは宇宙絶対の秘密を悟ることを得る訳であります。諸君が若し政治家にならんと欲せば、必ず先ず偽怪を研究し、教育家にならんと欲せば、必ず先ず仮怪を研究し、宗教家にならんと欲せば、必ず先ず真怪を研究せられよ。是れ余が諸君に忠告する所であります。
余は先年来日本国内を巡視して、到る処民間の妖怪を聞くが儘に集め記し、此に其起原を考うるに、総体の七分は支那伝来、二分は印度伝来、残りの一分は日本固有の妖怪の様に見えます。又其種類を考うるに、什中の五は偽怪、什中の三は誤怪、残りの二分丈は仮怪の割合となります。但し世間には仮怪最も多き様でありますけれども、其中には偽怪誤怪の混入せる例が沢山でありますから、ウッカリ信ずることは出来ませぬ。要するに数種の妖怪中偽怪誤怪の類が最も多いに相違ありませぬ。果たして然らば世間の者は妖怪の贋物ばかりをかつぎ出し、真物は却って知らずに居ります。諺に盲者千人に明者一人とは、尤もの格言ではありませぬか。
斯様に世の中には妖怪の贋物計り流行して居る原因を尋るに、全く人の奇情と迷心との二が製造場となりて、不断種々の妖怪を造り出す故であります。奇情とは誰人も有する好奇心の事にして、何にても見慣れず聞慣れぬ珍き事あれば、之を大層らしく云い立てて、人を驚かそうとする一種の癖心のことであります。迷心とは安心の反対にして、物事の道理に暗く、自分の思う様に往かない時に、色々の妄想を起して迷い出すことであります。人に此迷心があるから、安心することが出来ず、安心が出来ぬから、益々迷う様になります。奇情の方は稍狂気じみて居るけれども、左程害にはならず、且つ重に偽怪のみに関係して居るから、八ヶ間敷論ずるにも及びませぬが、迷心の方は偽怪にも誤怪にも仮怪にも関係し、一人の利害は勿論、国家の盛衰にも関係して居ることなれば、是れ計りは其儘に見捨て置く訳には参りませぬ。寧ろ重箱の角を楊子でほじくる様に、隅から隅まで迷心の大掃除を致し、以て人をして安心させてやりたいものであります。余は之を迷信退治と名けます。諸君よ、今日は文明日新とか教育普及とか唱えながら、迷信の雲が依然として愚民の心天を鎖して居るのは、何と申して宜しからんか、世の天狗を気取て居る学者や教育者に御尋申して見たいではありませぬか。麻疹の流行に際し入口に鎮西八郎為朝宿と題して、吾家には病気入ること出来ぬものと信じ居るが如き、隣家の失火に際し主人自ら鎮火の祈祷を行い、遂に其家と共に焼け死ぬに至りたるが如き、学校建築に際し村会の第一問題は、鬼門方位の吉凶を議するが如き、実にあきれ果てたる次第ではありませぬか。故なくして医士を取換え、故なくして奉公を見合せ、故なくして結婚を断り、故なくして親戚と絶交し、故なくして妻と離縁し、故なくして住居を転じ、故なくして家屋を毀ち、故なくして旅行を止め、故なくして約束を破る等、多くは是れ迷信より起りて居ります。諸君よ、ナント迷信の害は此に至て極れりと云わなければなりますまい。之を黙々に付し置て、学者や教育者の本分が立つでありましょうか。人は兎にあれ角にあれ、余は飽まで迷信退治を一身に任じて、人心の妄雲を掃い去り、真怪の明月を聞き顕わし、以て光明の新天地を作り出さんことを日頃熱望の余り、揣らずも妖怪研究に着手することになりました。
斯くして多年研究の結果、迷信は一片の迷心より起るは申す迄もなく、迷心は畢竟するに吉凶禍福の道理に暗きと、世態人情の意の如くならざるとの二者より起ると考えます。言葉を換えて申さば知識に乏きと、意力の弱きとに起因すと云うことであります。已に迷心は智と意との二者の不具、若くは病体より起ると知る以上は、之に相応の薬を与えて治療を施さば、忽ち知徳健全の人となりて、安楽の心地に到ることが出来るに相違ありませぬ。凡そ人一たび迷えば必ず其心を苦め、愈々迷えば益々苦むは、人情の常則なれば、安心の要道は其迷を去るより外にはありませぬ。若し一たび其迷を去れば、苦境は一変して至楽の天国となり、百難は四散して無憂の世界となる。仏教の所謂娑婆即寂光とは、此事ならんと思わるる程であります。若し更に進て其心地に真怪の別天地を開き来らば、上は日月星辰より下は山川草木に至る迄、皆不可思議の光明を放ち、春花秋月は勿論、雨夕風晨猶およく最妙極楽の光景を現わし、一望忽ち快哉と呼び、手の舞い足の踏むを知らざるの妙境に達することを得るは、実に不思議中の不思議ではありませぬか。世に斯る不思議のあるを知らずして、徒らに生死の門に迷い禍福の路に惑うは、之を評して愚中の愚と申さなければなりますぬ。豈哀き次第ではありませぬか。
今日愚民の智と意との不具を療する方法は、宗教と教育との二道でありて、教育は知識を進むるを目的とし、宗教は惑情を定むるを本意とする故、此二道並び行わるれば、自然に迷信を一掃することが出来る道理でありますけれども、其方法は内科の治療の如く、漸々徐々に其結果を示すものなれば、恰も靴を隔てて足を掻くが如くに思われ、何となく迂遠き様に感じられます。今迷信の弊害は旦夕に迫る有様なれば、外科の治療の如く、即時直接に痒き処に手を届かする様な方法がありそうに考えます。世間の学者は兎角高きを見て卑きを忘れ、近きを捨てて遠きを取るの風ありて、迷信妖怪の如きは大に実際上の利害あるにも拘らず、斯る卑近の事に心を用うるは、学者の体面を汚す様に思て居ります。又一般の教育者は読本算術の日課を授くるに汲々として、他を顧るの暇なきが如く、偶々閑隙ありて講学に志すものは、左程実際に急切の関係もなきヘルバルト氏の学理を探求するを以て、教育家の能事終れりと信じ、愚民迷信の熱度四十度以上に超過せるも、更に知らざるものの如くに気楽を構えて居ります。又普通の宗教家は木魚を鳴らして伽藍を守り、死人を迎えて引導を渡すを以て、僧家の本分を尽くせりと思い、甚きに至ては檀家の機嫌を取りて、受納を殖さんことのみに心を用うるが如き淺間敷ものもあります。偶々学事に篤志のものあれば、三界唯心とか一心三観とか、高尚の理屈計りを唱え、倶舎三年唯識八年などと気永の事計りを云い立てて、更に時弊に応じて教義を調合する匙加減を知らざる風情であります。故に近年教学共に振起勃興せるにも拘らず、民間に下りて見れば積年の迷信依然として其勢力を逞うし、以て教育の進路を遮り、宗教の改良を妨ぐること、日一日より甚くなる様に感じます。是れ独り国家の為のみならず、教学の為に残念至極のことであります。余は嘗て古人の詩を思い出し
尽 日 尋レ 春 不レ 見レ 春
芒 鞋 踏 遍 隴 頭 雲
帰 来 笑 撚二 梅 花一 嗅
春 在二 枝 頭一 已 十 分
とある様に今日の学者教育家宗教家は、大抵皆近く枝頭の春に背きて、遠く隴頭の雲を踏むの類にあらざるかを疑い、独り自ら嘆息して居る次第であります。今日の教育宗教の状態は唯今述ぶる通りの事情でありますから、此二道に依て迷信を退治するは、容易の事にあらずと考え、余は自ら一工夫を運らし、寧ろ外科的医法によりて即席療治を施さんと欲し、妖怪研究の看板を掲げ、妖怪講義を発行して世に公にすることに致しました。今其要点を一口に摘で申せば、余以為く世人が迷心惑情を去り難きは、全く天運と云える一大怪物が目前に懸りて、何程己れの心を尋てみても、サッパリ分らぬ故であります。蓋し天運とは生死常ならず、禍福定りなく、世事意の如くならざる一事にして、是れぞ宇宙の最大怪物と申して宜い。此怪物が実に迷信のバクテリヤにして、之に消毒法を施すにあらざれば、到底世に迷信の痕跡を絶つことは六ヶ布と考えます。妖怪研究の必要は全く此点にあることは、諸君も已に御分りでありましょう。喩えて申さば妖怪学は迷信のバクテリヤを殺す消毒剤でありて、余は之を専売する薬店でありますから、此病にかかりたる人は一服用いて其効験を試みられたきものであります。
老て子に別れ幼にして父を失い、妻は乳児を棄てて去り、夫は家産を破て死し、昨年は天災に困められ、本年は病患に悩され、盗難火難、水災風災、相継で至るときは、非凡の豪傑賢人にあらざるよりは、迷を起さざるもの蓋し一人もなかるべしと思います。生死禍福の門に迷わざることは、実に難中の至難であります。然しながら迷い易きものは亦悟り易きものにして、若し其人の病に相応せる薬法を以て之に投ずれば、積年固結せる惑病迷疾も、一朝にして雲となりて散じ、烟となりて消ることができます。瘧を医するにはキニーネ剤に若くものなく、迷信を医するには妖怪学に若くものなしとは、余が証券印紙付にて保障する所であります。畢竟するに人をして一たび天運の何たるを明かに了解せしむれば、生死の迷門も、禍福の暗路も、容易く通過し得る道理でありますから、余は此に一寸一口天運の何たるを述べようと考えます。
天運は規則なきが如くにして規則あり、定りなきが如くにして定りありて、恰も夏は暑く、冬は寒いと同じき道理でありますから、決して迷うにも怪むにも、歎くにも悲むにも及びませぬ。凡そ天の道は公平無私にして、人間の如く偏頗の私心あるものではありませぬから、人の方で自分勝手に願うた祈だとて、天は夫が為に規則を枉げる様なことは決して致しませぬ。已に公平無私なれば、何事も権衡平均を保つ様に傾くが、天道の常性であります。高きものは之を抑え、卑きものは之を揚げ、弱きものは之を助け、強きものは之を斥け、張るものは之を屈し、縮むものは之を伸ばすが、所謂天道の平均主義であります。恰も鉄道の敷設に高き処は之を削り、低き処は之を埋め、成るべく地平を保たんとすることに似て居ります。故に余は天道は猶お鉄道の如きかと申します。古来の諺にも人間万事塞翁馬とあるが如く、天道は決して一人の者に幸福のみを与うることなく、又不幸のみを下すことなく、幸福の後には不幸あり、不幸の後には幸福ありて、其循環の次第は風雨の後には晴天あり、晴天の後には風雨あるが如く、豊年の後には凶年あり、凶年の後には豊年あるが如く、誠に天道の公平無私にして、而も平均権衡を失わざるは感服する計りであります。我々などの或時は晨起し、或時は朝寝し、或は忽然として怒り、或は卒爾として喜び、気儘に規則を犯し、勝手に約束を破るものとは実に天地の相違ではありませぬか。此道理をよくよく推し極めて見れば、世に真の不幸者なく、真の罹災者なく、長き年月の間に吉凶禍福の差引を立れば、左程の損もなければ、得もないことが分ります。然るに一たび不幸に遇えば、再三之を重ねんとし、一人天災にかかれば、一家盡く之をかからんとする傾向あるは、是れ多くは天の然らしむる所にあらずして、自ら招く所であります。凡そ天災不幸は弱点に付け込ものなれば、余り災難を恐れて迷心を増長せしむれば、益々種々の災難が四方より推しかけて来るものであります。諺にも疑心暗鬼を生ずと云えるが如く、多くの災難不幸は之を疑懼するより起るに相違ありませぬ。軽症の病が重患となり、活くべき病人が俄に死するが如きは、多くは自分の迷心より招く所であります。一家の衰微滅亡も矢張り天の然らしむる所にあらずして、自ら招く所なるは、之に準じて知ることが出来ます。
世に不幸の種類至て多きも、不幸中の不幸は死の一事であります。死は天道の常則にして、我人の免るべからざる所なれども、天寿を全うすること能わざるは、多く其人自ら招く所なることは、実際に照して明瞭であります。死已に然らば、他は云わずとも分りましょう。斯る道理でありますから、苟も人たるものは天道天運の規則を明かにし、生死禍福の門路を究め、百難千死を侵しても、決して迷情を動かさず、疑念を起さず、泰然として一心を不動の地に置き、復び生死路頭の迷子とならざる様に平素研究し置くは、此世の浮橋を渡るに肝要中の肝要であります。
一家の建築には小刀細工では間に合わず、大店の商法には目子勘定では役に立たず、生死の迷心を定むるには、人相方位の如き小刀細工や、売卜禁厭の如き目子勘定では到底六ヶ敷い。必ずや天地の大道に基き、道理の根源を明かにせなければなりませぬ。誰れも富士山に登りて始て箱根の低きを知り、地球図を見て始て日本の小なるを覚ゆるが如く、天地の大道を究めて、始て迷信の恃むに足らざるを了解する様になります。故に我人の恃むべく依るべく安心すべきものは、天地の大道を離れて、決して其外に求むることは出来ませぬ。諸君若し苟も迷信の恃むに足らざるを知らば、速に去りて妖怪の学林に遊び以て天地の大道を講究せよ。諸君若し苟も安心の求むべきを知らば、忽ち来りて余が門庭に入り、以て生死の迷路を看破せよ。天堂近きにあり楽園遠きにあらず。唯生死禍福の迷雲妄霧を一掃して、心天高き処に真月を仰ぐの一事、よく眼前咫尺に天堂楽園を開くことが出来ます。諸君決して此事を疑う勿れ。若し之を疑わば、請う之を神仏に問え。神仏若し答えずんば之を先聖に問え。先聖尚お告げずんば之を後人に問え。諸君は必ず先聖後聖其揆一なることを知らん。唯余が諸君に誓う所は古人我を欺かず、我亦他人を欺かざることであります。
一人の安逸は一国の安逸であり、一家の快楽は一社会の快楽であります。妖怪の研究よく生死路頭の迷人禍福院内の病客をして最楽至安の天地に遊ばしむるを得ば、其社会国家を益することは申す迄もありませぬ。古来英雄の事跡を見るに、皆生死禍福に痴情を起さず、方寸城中一点の迷塵を溜めざるものに限ります。非凡と凡人との別、英雄と愚俗との差は、迷心を有すると有せざるとによりて分ります。故に人若し英雄とならんと欲せば、必ず先ず迷信を一定する道を講じなければなりませぬ。如何に平々凡々の人物にても、一たび迷信を翻えして精神を安定するを得ば、意外の事業を大成し得るは必然の道理であります。よし政治家になるにも実業家になるにも、軍人になるにも役人になるにも、此大決心が欠けて居て些々たる吉凶禍福に心を奪わるる様では、平々凡々の輩となりて果つるより外はありませぬ。果たして然らば妖怪学の研究は一人一家の幸福のみならず、国家社会の繁盛を来す基となることは、諸君に於ても十分分りましたであろうと考えます。
以上は余り妖怪学の効能を述べ過ぎる様に見えて、売薬屋の効能書の様に思う人もありましょうけれども、余が目的は最初より徒らに閑人の道楽の積りで始めたる訳ではなく、全く愚民の迷信を安定せんとする本心より出でたるものなれば、世人に其趣意を誤解せざる様に注意を願いたき一念より、此の如く効能を述べたる次第であります。其効能の果して名実相応するや否は、自分免許の保証では人の承知せざる恐あれば、諸君の研究の結果を待て判定することに致しましょう。
余は此一事につき多年焦慮苦心の結果空しからず。去る頃宮内大臣より陛下の御前へ奉呈せりとの御沙汰を蒙り、不肖の光栄満身に余り、感泣措く所を知らざる程でありました。又引続きて文部大臣より過分の賛辞を賜わるの栄を得、其喜亦将に溢れんとする計りでありました。斯る栄誉に対しては今より一層精を励まし神を凝らし、以て益々妖怪の蘊奥を究め、宇宙の玄門を開き、天地の大道を明らかにし、生死の迷雲を払い、広く世人をして歓天楽地の間に逍遥せしめ、永く国家をして金城鉄壁の上に安座せしむることを且つ祈り且つ誓う所であります。諸君にして若しよく此微衷を知らば、余に取りては誠に願う所の幸であります。
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