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「妖怪談義 自序」柳田國男

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 どうして今頃このような本を出すのかと、不審に思って下さる人のために、言っておきたいことが幾つかあります。第一にはこれが私の最初の疑問、問えば必ず誰かが説明してくれるものと、あてにしていたことの最初の失望でもあったことであります。私の二親は幸いにあの時代の田舎者の常として、頭から抑え付けようともせず、又笑いにまぎらしてしまおうともしませんでした。ちょうど後年の井上圓了さんなどとは反対に、「私たちにもまだ本とうはわからぬのだ。気を付けていたら今に少しずつ、わかって来るかも知れぬ」と答えて、その代りに幾つかの似よった話を聴かせられました。平田先生の古今妖魅ようみ考を読んだのは、まだ少年の時代のことでしたが、あれではお寺の人たちが承知せぬだろうと思って、さらに幾つもの天狗てんぐ狗賓ぐひんに関する実話というものを、聴き集めておこうと心がけました。
 川童かっぱを私などの故郷ではガタロ即ち川太郎と申しました。家が市川の流れと渡しに近かったために、その実害は二夏と途絶えたことはなく、小学校の話題は秋のかかりまで、ガタロで持切りという姿でありました。それから大きくなって三十年余、ずっと続けてというとうそになりますが、旅に出たり本を読んだりして、その頃を思い出すことがますます多く、とうとう持ち切れなくなって大正三年、世間が全く改まろうとする頃に入って、川童駒引かっぱこまひきという古風な一冊の本を世に出すことになりました。今となって考えると、これが適当な時節であったとは言われませんが、少なくとも問題の保存には役立ちました。私などのうっかり見過そうとしていた隅々の事実が、各地の同志者によって注意せられ、又報告せられるようになりました。うすうすは自分もそうでないかと思っていたことが、もう今日ではほぼ確かになった例が幾つかあります。
 たとえば川童の地方名は、どこへ行っても大抵はカワの童児、そのカワは水汲み場又は井堰いせきのことでありました。沖縄の諸島に行くと、こちらの川童即ちカワラワとよく似た霊物れいぶつを、インカムロとカーカムロとの二つに分けております。即ち海のわらべと井の童で、かつては海中の尽きぬ宝と、次々耕されて来た陸上の富とが、共にこの幼ない神たちの管理に属したことを、語るものかと思います。日本の古典の中の珍らしい文字使い、遠い航路を守る神で、同時にみそぎ、、、という厳重な神事に立会いたまう神が、しばしば少童という漢語を以て表現せられてあるのも、恐らくこの方面からでないと説明ができぬかと思います。
 こんな話をつづけると、いよいよ序文らしくなくなりますが、終りにもう一つだけ付け加えたいことは、最初この本に入れるつもりで、後に削ってしまった砂まきたぬきの話であります。これは説明があまりにあくどいので、いちおう引っ込めておいたのですが、あれにもなつかしい思い出が永くつきまとうております。私がたしか十四歳の年、両親に離れて遠く利根川の岸の町に住んでいた頃、始めてこの話を聴いて大きな印象を受けました。話をしてくれたのは四十ばかりの女性で、そう巧妙であったわけではありませんが、問題の樹というのがこんもりと、たった一本だけ堤のつい目のさきに見えているので、渡し小屋の床几に腰を掛けるたびに、何回でもその折の光景を胸に描いて見たのであります。月の明るい夏の晩の宵の口に、下から土手づたいに帰って来たある人が、ちょうどこの近くまで来ると一匹の小さな獣が、土手を飛び越えて水の岸まで走って行くのを見ました。砂場の広さは二三十間で、何も植えてはなかったといいます。この近くには農家も一軒あるので、そこの猫だろうとは思ったのですが、少し挙動が変っているので、歩みをゆるめて遠くから見ていますと、いったん浅瀬あさせの水の中をあるいてから、すぐに砂地の上をころころと転げまわりました。そうして引き返して来て土手の上の、そのこんもりとした一本木の梢に、かき登ってしまったというのであります。そこで漸く猫ではないと心づいて、用心をしいしいその樹の下を通って来ると、果せるかなたくさんの砂が降って来ましたが、楽屋を見ているから、声を立てる程には驚かなかったという話。これを私が戸川残花先生の編集せられた「たぬき」という本に、全部実話のつもりで報告してしまったのであります。今から心付くと、あれは狸のためには迷惑な、軽妙なこしらえ話でありました。
 戸川さんは、今でも覚えている人が多いと思いますが、半生を江戸会誌の事業にささげられた老学者で、この頃は紀州の徳川侯などと共に、今いう文化財の保存事業に手を着けておられました。だんだん生物学方面の人の話を聴いてみると、狸くらい耕作者のために、蔭の援助をつづけている野獣は少ないのに、よしなき「かちかち山」などの昔話が流布したばかりに、居れば必ずって食われるまでに、農家の同情を失ってしまい、近年はめっきりと数を減じ、野鼠や害虫の害がこのために非常に多くなったということだ。これは何でも一つ、心ある人たちの協力の下に、この狸の真実を世に明らかにしなければならぬという趣意から、最初に先ず喚びかれられたのが狸の会という、数年前からできていた有力な団体でありまして、それがこの珍しい一巻の書の、発行にも参与していたのであります。
 東京にも以前は確に狸屋敷という評判の家がありました。現に私なども中学生の頃に、二年足らずもそういう家に、兄と共に住んでいたこともありますが、よほどびくびくしていても、かつてそれらしい形跡がなく、たまたま二階の雨戸にさわる音を聴いて、がらりと開けて見たら尾の長い猫だったので、兄が狂歌を詠んだというぐらいが思い出であります。あれから又ざっと六十年、地下にはいろいろの人の掘った横穴が縦横に通り抜けている世の中に、いくら理解があり趣味が豊かな人たちであろうとも、ここで狸の真相を究めさせようとしたことは、戸川先生の無理な望みでした。しかも考えてみなければならぬことは、こうしたきらめくような新しい文化の中に於て、なお且つ古風きわまる化け物を信じたり怖れたり、たまたまおまけ、、、だ誤解だということがわかっても、それを噂にして人に話してみたり、自分も時々はもしやと思ったり、更に巧者な人は新たにこしらえて世に伝え、こればかりはいつも舶来の更に精妙なるものを以て、さし換えて置こうとする者のないことであります。
 私は幼少の頃からだいぶこの方面にむだな時間を費やしましたけれども、今となってはもう問題を限定しなければなりません。われわれの畏怖というものの、最も原始的な形はどんなものだったろうか。何が如何なる経路を通って、複雑なる人間の誤りや戯れと、結合することになったでしょうか。幸か不幸か隣の大国から、久しきにわたってさまざまの文化を借りておりましたけれども、それだけではまだ日本の天狗や川童、又は幽霊などというものの本質を、解説することはできぬように思います。国が自ら識る能力を具える日を、気永く待っているより他はないようであります。

昭和三十一年十二月

燭陰

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