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「妖怪談義」柳田國男

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 化け物の話を一つ、出来るだけきまじめに又存分にしてみたい。けだしわれわれの文化閲歴のうちで、これが近年最も閑却せられたる部面であり、従ってある民族が新たに自己反省を企つる場合に、特に意外なる多くの暗示を供与する資源でもあるからである。私の目的はこれに由って、通常人の人生観、わけても信仰の推移を窺い知るにあった。しかもこの方法をやや延長するならば、あるいは眼前の世相に歴史性を認めて、徐々にその因由を究めんとする風習をも馴致し、迷いも悟りもせぬ若干じゃっかんのフィリステルを、改宗せしむるの端緒を得るかも知れぬ。もしそういう事ができたら、それは願ってもない副産物だと思っている。
 私は生来オバケの話をすることが好きで、又至って謙虚なる態度を以て、この方面の知識を求め続けていた。それが近頃はふっとその試みを断念してしまったわけは、一言で言うならば相手が悪くなったからである。先ず最も通例の受返事うけこたえは、一応にやりと笑ってから、全体オバケというものはあるものでござりましょうかと来る。そんな事はもうとっくに決しているはずであり、又私がこれに確答し得る適任者でないことは判っているはずである。すなわち別にその答が聴きたくて問うのではなくて、今はこれより外のあいさつのしようを知らぬ人ばかりが多くなっているのである。偏鄙へんぴな村里では、怒る者さえこの頃はできて来た。なんぼわれわれでも、まだそんな事を信じているかと思われるのは心外だ。それは田舎者を軽蔑した質問だ、という顔もすれば又勇敢に表白する人もある。そんならちっとも怖いことはないか。夜でも晩方でも女子供でも、キャッともアレエともいう場合が絶滅したかというと、それとは大ちがいの風説はなお流布している。何の事はない自分の懐中にあるものを、出して示すこともできないような、不自由な教育を受けているのである。まだしも腹の底から不思議のないことを信じて、やっきとなって論弁した妖怪学時代がなつかしいくらいなものである。ないにもあるにもそんな事は実はもう問題でない。われわれはオバケはどうでもいるものと思った人が、昔は大いにあり、今でも少しはある理由が、判らないので困っているだけである。

 都市の居住者の中には、今はかえって化け物を説き得る人が多い。これは一見不審のようであるが、その実は何でもないことで、かれらはほとんど例外もなく、幽霊をオバケと混同しているのである。幽霊の方ならば、町の複雑した生活内情の下に発生し易く、又少々は心当たりのある人もあって、次々の噂は絶えず、信じて怖れおののく者も出て来るので、これをわが同志者と心得て意見を交換しようとすると、がっかりする場合ばかり多いのである。幽霊もそれ自身討究されてよい現象であり、又最初の聯絡と一致点はあったかも知らぬが、近世は少なくともまるで物がちがっていて、此方は言わばお寺の管轄であった。それをオバケとはいう者はあっても、化け物というとまだ何だか変に聞こえる。お岩もかさねも見覚えがあるからこそこわいので、これを化けて出るというのは言葉の間違いである。へんぐえ、、、、というからには正体が一応は不明で、しまいに勇士に遭って見顕わされるものときまっている。それを平知盛とももり幽霊なりなどと、堂々と自ら名乗って出たものと一つに見るのは、つまりは本物の種切れとなって後まで、なおこの古い名前に対する関心の、失せていなかった証拠とも見られる。
 誰にも気のつくようなかなり明瞭な差別が、オバケと幽霊との間にはあったのである。第一に前者は、出現する場処がたいていは定まっていた。避けてそのあたりを通らぬことにすれば、一生出くわさずに済ますこともできたのである。これに反して幽霊の方は、足がないという説もあるにかかわらず、てくてくと向うからやって来た。かれに狙われたら、百里も遠くへ逃げていても追い掛けられる。そんな事は先ず化物には絶対にないと言ってよろしい。第二には化け物は相手をえらばず、むしろ平々凡々の多数に向かって、交渉を開こうとしていたかに見えるに反して、一方はただこれぞと思う者だけに思い知らせようとする。従うて平生心掛けが殊勝で、何等やましい所のないわれわれには、聴けば恐ろしかったろうと同情はするものの、前以て心配しなければならぬような問題ではないので、たまたま真っ暗な野路などをあるいて、出やしないかなどとびくびくする人は、もしも恨まれるような事をした覚えがないとすれば、それはやはり二種の名称を混同しているのである。最後にもう一つ、これも肝要な区別は時刻であるが、幽霊はうしみつの鐘がいんにこもって響く頃などに、そろそろ戸をたたいたり屏風びょうぶを掻きのけたりするというに反して、一方は他にもいろいろの折がある。器量のある化け物なら、白昼でも四辺を暗くして出て来るが、先ず都合のよさそうなのは宵と暁の薄明りであった。人に見られて怖がられるためには、少なくとも夜ふけて草木も眠るという暗闇の中へ、出かけて見た所が商売にはならない。しかも一方には晩方の幽霊などというものは、昔から聴いたためしがないのである。大よそこれほどにも左右別々のものを、一つに見ようとしたのはよくよくの物忘れだと思う。だからわれわれは怪談と称して、二つの手をぶらさげた白装束のものを喋々ちょうちょうするような連中を、よほど前からもうこちらの仲間には入れていないのである。

 そこで話はきっすいの晩方のオバケから始めなければならぬのだが、夕をオオマガドキだのガマガドキだのと名づけて、悪い刻限と認めていた感じは、町では既に久しく亡びている。私は田舎に生まれ、又永い間郊外の淋しい部落に住んでいるために、まだ少しばかりこの心持を覚えている。古い日本語で黄昏をカハタレといい、もしくはタソガレドキといっていたのは、ともに「彼は誰」「誰ぞ彼」の固定した形であって、それも唯単なる言葉の面白味以上に、もとは化け物に対する警戒の意を含んでいたように思う。現在の地方語には、これを推測せしめるいろいろの称呼がある。例えば甲州の西八代で晩方をマジマジゴロ、三河の北設楽しだらでメソメソジブン、その他ウソウソとかケソケソとかいっているのは、いずれも人顔のはっきりせぬことを意味し、同時に人にあっても言葉もかけず、いわゆる知らん顔をして行こうとする者にも、これに近い形容詞を用いている。歌や語り物に使われる「夕まぐれ」のマグレなども、心持は同じであろう。今でも関東ではヒグレマグレ、対馬の北部にはマグレヒグレという語がある。東北地方で黄昏をオモアンドキというのも、やはりアマノジャクが出てあるく時刻だというから、「思わぬ時」の義であったらしく考えられる。
 村では気をつけて見るとこういう時刻に、特に互いに挨拶というものを念入れて、できる限り明確に、相手の誰であるかを知ろうとする。狭い部落の間ならば、物ごし肩つきでもたいていはすぐに判るはずだが、それでも夕闇が次第に深くなると、そうだと思うが人ちがいかも知れぬという、気になる場合が随分ある。最も露骨なのが何吉かと呼んでみたり、又はちがってもよいつもりで、丁寧に「お晩でございます」といったりする。それもしないのはもう疑われているので、すなわちいわゆるうさん臭いやつである。だからこのような時刻に里を過ぎなければならぬ他所者よそものは、見られるために提灯を提げてあるく。その前は恐らく松の火であったろう。見馴れぬ風体ふうていで火も無しにあるくというのは、化け物でなくともよくない者にきまっている。そう取られても致し方のない所に、旅の夕のかなしさというものは始まっている。それがこの節は町の子供などに、もう提灯は火事か祝賀会か、涼み舟ぐらいの聯想しか浮ばなくなった。そうして又白昼にも知らぬ人同志が、互いにウソウソと顔を見てすれちがうようになった。化け物の世界も一変しなければならぬわけである。

 この見たことのない他所者のことを、肥前の上五島ではヨシレンモンといっている。今では小児の間にしか用のない語かも知れぬが、昔の無事太平の田舎では、それが通っただけでももう一つの事件であった。私などの小さい頃には、ヨソの人という語にこの不安を托していたが、少し西へ行くとボウチという語がある。岡山県でもStrangerを意味する語を、面と向かってはボーッツアン、陰ではやはりボウチといっている。同じ呼び方は備後から安芸、あるいはもっと西へも及んでいるようだが、その起りは未だ明らかでない。越中の氷見ひみ地方では、以前賤しめられたある部落をボーシ、遠江とおとうみではこれをホチ・ポチ、又はポチロク、三河では下級の職工にホチと呼ばれる者があるから、事によると法師という語からの分化かも知れぬが、とにかくに子供たちには気味の悪い、普通の通行人とは全く別なものに、感じられていたことはほぼたしかで、少なくとも中国地方のボウチには、薄暮の影響があったかと思う。九州の南部は日向ひゅうがでも大隈おおすみでも、ヤンボシといえば化け物のことである。夜分山路をあるくとときどき出逢うもの、坊主が首をくくった処には必ず出るという、ぼうとした大きな人影のような妖怪だそうで、ただの山伏もヤンボシ又ヤンブシといって通ずるが、この方は通例ヒコサンといわれている。
 だから黄昏に途を行く者が、互いに声を掛けるのはなみの礼儀のみでなかった。言わば自分が化け物でないことを、証明する鑑札も同然であった。佐賀地方の古風な人たちは、人を呼ぶときは必ずモシモシといって、モシとただ一言いうだけでは、相手も答えをしてくれなかった。狐じゃないかと疑われぬためである。沖縄でも以前は三度呼ばれるまでは、返事をしてはならぬという、甚だ非社交的なる俗信があった。二度までは化け物でも呼び得るからと言ったが、無論これは夜分だけの話であろう。加賀の小松附近では、ガメという水中の怪物が、時々小童に化けて出ることがある。誰だと声をかけてウワヤと返事をするのは、きっとそのガメであって、足音もくしゃくしゃと聞えるという。能登でも河獺かわうそは二十歳前後の娘や、碁盤縞ごばんじまの着物を着た子供に化けて来る。誰だと声かけて人ならばオラヤと答えるが、アラヤと答えるのは彼奴あやつである。又おまえはどこのもんじゃときくと、どういう意味でかカハイと答えるともいう。美濃の武儀郡でも狸が今晩はといって戸を開けたりすることがあるが、誰じゃと声かけるとオネダと答えるそうだ。オレダということができぬので、化けの皮があらわれるのである。土佐の幡多郡でも、狸には誰じゃときくと必ずウラジャガと答えるという。すなわちオラとはいい得ないのである。そこで此方でも「ウラならもとよ」と言い返してやると、もう閉口して化かすことはないという。人の至って多い都会のまん中にも、今なお「今晩は」・「どなた」・「あのわたくし」などという問答はよく行なわれ、あぶない話だがこれだけで直ちに承認される。それほどまでにわれわれは、互いの語音を記憶し合っているので、従っておのれをウラという地方の人々は、うっかり土佐の幡多郡へは行けなかった。しかしそんなに近づいてからでは、げるにも実は骨が折れる。これは先ず一つのうわさであって、人々はそれよりももっと遠くから、用心していたに違いないのである。陸中大槌地方の小児等は、狐は人に化けても手頸てくびのクロコボシがないからすぐわかる。だから狐らしいと思ったら、手を出して見せろというがよいなどというが、そんな大胆な事はいよいよできそうにもない。

 親たちが日暮に子供の外に遊んでいるのを、気にすることは非常なものであった。子供も臆病なのから順々に、まだ蝙蝠こうもりも飛び出さぬうちから、家の近くへ近くへと戻って来るし、そうでなくとも心の内では、御飯だよとさがしに来られるのを待っている。そういう中に僅ばかり、誰も呼びに来ぬ児がまじっていた。
   親のない児は入日を拝む
   おやは入日のまん中に
という子守唄があるが、奉公に来た者でなくとも、何か家の様子で飯時にも自分の方から、そろそろかえって行かねばならぬ児はあった。こういうのがしばしば神隠かみかくしにったのである。
 東京では「蛙が鳴くからかえろッ」という田舎じみた童言葉わらべことばが、今でも町なかに唱えられているが、田舎ではかえってそういう口合いは聴かない。佐渡の島には「あとの子はむじなの子」という諺があると、中山徳太郎翁は書留めておられる。これも多分は遅れた子をからかう語であろうが、そういう不安は少しは伴うていたと思う。小児を夕方に誘うて行く怪物を、多くの地方では隠し神といっている。沖縄人はこれを物迷いと名づけ、神という土地でも今はただ怖れるばかりである。丹波の夜久野やくのでは暗くなるまで隠れんぼをしていると、隠し神さんに隠されるといい、若狭わかさ名田荘なだのしょうでも、又ずっと離れた肥後の玉名郡にも、同じ言葉がある。栃木県の鹿沼辺では、カクシンボといっている。隠れんぼは今は単なる遊戯であるが、最初或は信仰と関係のあったものかと私は想像している。秋田県雄勝おかち郡ではカクレジョッコ、夜分隠れん坊をすると、カクレジョッコにさらわれるという点は同じである。
 神戸市ではこれをカクレババという者がある。小児は夕方に隠れんぼをすることを戒められる。路次の隅や家の行きつまりなどに、隠れ婆というのがいてつかまえて行くからという。島根県その他ではこれをコトリゾといっていた。子取りは本来は産婆さんばのことだが、はやくそういう名を以てこの妖怪を呼んだのである。足利時代にも臥雲日件録がうんにっけんろくか何かに、丹波から子取尼という者が出て来た風説が載せられ、実際またそういう悪党もなかったとは言えぬが、今ある名称に至っては空想の産物である。出雲の子取りなぞは子供の油を絞って、南京皿を焼くために使うなどと、丸で纐纈こうけち城かハンセル・グレツェルのようなことを伝えており、東北では現にアブラトリという名もあって、日露戦争の際にも一般の畏怖であった。東京では普通にヒトサライというわかり易い語を使うが、信州の埴科はにしな地方ではフクロカツギが通称で、大きな袋を持ってあるいているように想像せられる。これも夕方に隠れ鬼をしていると隠すのである。親が子供の「なぜ?」に答えるために、こんな急ごしらえの名前をお化けに附した例は多い。私などの幼ない頃には、泣くとやって来るのはチンチンコワヤであったが、これなどはよく考えて見ると夜蕎麦売よそばうりの声色こわいろであった。名前がでたらめだから怖いのまで虚誕きょたんであったと、いうことはできぬようである。

 この事はずっと以前、「山の人生」の中にも説いておいたが、秩父の山村では五月高麦さつきたかむぎの頃に、小児の神に隠される者が最も多く、その怪の名をヤドゥカといっていた。ところがヤドゥカとは高野聖のことであって、迂散うさんくさい旅人には相違ないが、要するにただの人間に過ぎない。だから怖くはないとも言われぬのは、それにもかかわらず子供が隠されたからである。不思議の根源はもう少し底にあったように思う。隠し神は子供を取りかくすからそう名づけたと見てよいが、神戸の隠れ婆や秋田県のカクレジョッコなどは、もう一度どうしてそんな名ができたかを、考えてみなければならぬ。関東では子供が隠れ座頭に匿されるということを、半ばはたわむれにだろうが近頃まで説く人があった。あるいは夜中に踏唐臼ふみからうすの音をさせ、又はを屋外に出しておくと借りて行く怪物だなどともいっていたが、さて子供を取ってどうしてしまうのかは全くわからない。つまりは子供の時々見えなくなる事実と、こんな名前とを結びつけたまでである。羽後うごの横手では、隠れ座頭ざとうかかとのない盲人だというが、これには害をした話はなく、かえって市の日にこの座頭を見つけると、福を授かるなどと伝えていた。北海道でも江差えさし松前まつまえの間の海岸に、昔は隠れ座頭という化け物が出る場処があったそうだが、見た人はもちろんなくて、ただそういう名の岩窟がんくつがあるのみであった。だんだん考えて行くと、座頭と解したのは全くの思い違いで、これだけは古くからある隠れ里の口碑こうひが、少しずつ化け物話に変って行く過程らしいのである。茨城県のどの地方かには、隠れ座頭の餅を拾えば長者になるという説があった。その餅は山野の草の間などに、ゆくりなく見出されるものであるという。そうかと思うとその隣県の芳賀はが郡あたりには、隠れ里の米きという話があり、たまたまその音を聴いた者は、長者の暮らしをすると伝えている。ちょうどねずみの国の昔話にもあるように、昔の米搗きは三本の手杵てきねで、唄をうたって賑やかなものであった。それが地面の下などから聴えて来るのである。あるいは又シズカモチとも称して、夜中にこつこつと遠方で餅を搗くような音を、人によって聴いたり聴かなかったりする。静か餅を搗き出されるというのは、その音がおいおい遠くなって行くことで家の衰える前兆、これに反してだんだん近く聴えると、搗き込まれたといって運が開ける。その音を聴いた人は後向きにを突き出すと、その箕へ財宝が入って来るとまで言われている。諸国里人談しょこくりじんだんその他の近世の見聞録に、隠れ里の話は余るほど出ているが、それはことごとくめでたい瑞相ずいそうとあって、人に災いしたという言い伝えなどは一つもない。しかもこまごまとした内容が忘れられて、名称ばかりが後に残ることになると、とかく人はこれをお化けの方へ引き付けたがる。信仰は世につれて推し移り又改まるが、それが最初から何もなかったのと異なる点は、こういう些細ささいな無意識の保存が、永い歳月を隔ててなお認められることである。その中でも殊に久しく消えないものは畏怖と不安、見棄てては気がとがめるという感じではなかったかと思う。もしそうだとするとこの隠し神の俗信などは、前期の状態の殊に不明に帰した場合である。私の方法以外には、これをさかのぼり尋ねて行く道は恐らくあるまい。

 もとより一つや二つの事実に拠って、大きな断定を下すことは許されない。ゆえに私たちは他にもこれと同じような過程をとって、進化して来たらしい化け物があるか否かを、探してみようとしているのである。一つの類例は本所の七不思議などととなえて、オイテケ堀という怪談がある。魚釣りの帰りなどに「置いて行け置いて行け」と路傍から呼びかける声ばかりのオバケで、気がついてみると魚籠びくは空っぽになっていたという類の評判がある。しかしこれは江戸以外には稀にも聴かぬ話で、狐や山猫はよく携えている食物を奪うというけれども、闇の横合いから声をかけるということはない。声をける各地の路の怪は、むしろ反対に持って行けというのが普通である。多くの昔話に伝わっているのは、昔正直な爺様じいさまが夜の山路を通ると、しきりに路脇みちわきから「飛びつこうか引ッつこうか」と呼ぶ者がある。あまり何度もいうので「飛びつくなら飛び付け」とつい答えると、どさりと肩の上へ重い物が乗りかかった。家へかついで戻っての下でひろげて見れば、金銀一ぱいの大きな袋で、これによってたちまち長者になる。それを大いに羨んで隣の慾ばり爺が、同じ時刻に同じ処を通ると例のごとく、これに答えて「引っつくなら引っつけ」というや否や、どさりと背一面に落ちかぶさったのは松脂まつやにであった云々。こういう話が僅かずつ形を変えて、今もまだ多くの女子供の記憶にきている。
 運は生まれる時から一人一人に、定まったものがあって動かせない。もしくは善心の男に授かるべき福分は、どんなに真似ようとも横着者には横取りができない。しいて真似るとかえって災いを受ける。というような教訓が昔話にはよくついてまわっている。不思議は誠に不思議だが、これには少しでも化け物の分子は伴なわぬ。従って他日そういう事件の起こりそうな夜路をあるいても、おそろしくもこわくもならなかったわけである。ところがこのごとき現実は当然にはやく信じられなくなって、しかもその全部を丸々の作り話とは認めない人々が、何とかしてその要点だけでも保留しようとするらしいのである。薩摩さつま阿久根あくね近くの山の中に、半助がオツと称する崖がある。地名の起りは明治十年頃のでき事だというそうだが、四助と三助という二人の友だちがあった。或日四助は山にはいって雨にあい、土手のかげみたような処に休んでいると、どこからともなく「ゆ」という声が聞え、あたりを見まわしても人はいない。四助はこの声に応じて「ゆならえて見よ」というと、たちまちその土手がくずれて、沢山の山のいもが手もかけずに取れた。三助はこの話を聴いて大いに羨み、やはり同じ山に往って松の木の下を通ると、又どこからともなく「流る流る」という声がする。「流るるなら流れてみよ」と答えたところが、今度は松脂がどっと流れて来て、三助がからだを引包んで動けなくなった。三助の父の半助、炬火たいまつを持って山へ捜しに来て、おーいとばわるとおーいと答えるので、近よって松の火をさしつけたら、たちまち松脂に火が移って三助は焼けてしまい、父の半助は驚いて足を踏みはずして落ちた。それで半助がオツと称するというのは、歴史のように見えるが、疑いなく改造せられたる昔話である。これと下半分だけ似かようた話は、濃尾の境には伝説となって多く残っている。いずれも木曾の川筋にあるから、源流はすなわち一つであろう。尾張の犬山でもヤロカ水、美濃の太田でもヤロカ水といって、大洪水だいこうずいのあったという年代は別々でも、この名の起りは全く同じであった。それは大雨の降りつづいていた頃の真夜中に、対岸の何とか淵のあたりから、しきりに「ろうかろうか」という声がする。土地の者は一同に気味を悪がって黙っていたのに、たった一人が何と思ったか、「いこさばいこせ」と返事をしたところが、流れは急に増して来て、見る間に一帯の低地を海にしたというのである。これと同様の不思議は明治初年に、入鹿池いるかいけの堤の切れた時にもあったというが、それも一種の感染としか思えない。木曾の与川の川上では古い頃に、百人ものそまがはいって小屋を掛けてとまっていると、この杉林だけは残しておいてくれという、山姫様の夢のつげがあった。それにもかかわらず伐採に取りかかかると、やがて大雨が降って山が荒れ出した。そうしてこれも闇の夜中に水上の方から、「行くぞ行くぞ」と頻りに声をかけた。小屋の者一同が負けぬ気で声を合わせ、「来いよー」とり返すとたちまち山は崩れ、残らず押し流されてたった一人、この顛末てんまつを話し得る者が生き残った。話はこういう風にだんだんと怖ろしくなって来るのである。

 伝説と昔話とは、今でもごっちゃにして喜んでいる人があるが、二者の堺目さかいめはかなり截然せつぜんとしていて、説く者聴く者の態度が共に全く別であった。すなわち昔話はどうせ現世の事でないと思っているから、できるだけ奇抜な又心地よい形にして伝えようとしているに反し、伝説は今でも若干じゃっかんは信ずる者があるので、怪異をありそうな区域に制限する。従うて時代々々の知能と感覚はこれに干渉し、しばしば改造を加えて古い空想を排除する。化け物の話などはその好い例で、昔話の天狗、狐、鬼も山姥やまうばも皆少々おろかで弱く、伝説の方ではほとんど常に強剛で人を畏服せしめる。この点だけからいうと近代にはいって、人はかえって怯懦きょうだとなり無能となったようにも見え、事実また妖魔の世界も進化しているのだが、これは要するに迷信の最後の残塁ざんるいを意味するのである。かつて昔話の中に誇張せられているような奇跡が、一般に承認せられていた時代がなかったら、今ある怪談のごときものだけが、唐突としてわれわれの間に、生まれ出るわけはなかった。いわゆるヤロカ水の史実もこれを暗示しているが、これと関聯してまだ幾つかの例証がある。たとえば姿は見せないで、声だけで人をおどすという化け物の中に、越後ではバリオン又はバロウ狐というのがいる。あの土地の人なら少しずつ皆知っていることと思うが、これが狐ときまったのはそう古いことでない。バロウは方言で「負われよう」を意味する。南蒲原かんばら郡の昔話に、昔悪い狐が晩方になると、路のほとりへ出てバロウバロウといい、村の通行人を怖がらせた。ある一人の若者があって、おれが往ってぶて来ると、皆の留めるのも聴かず、擂鉢すりばちをかぶって一人で出かけた。果してバロウバロウというから「さアばれ、さアばれ」と、縄で背中へぐるぐる巻きにして戻ってきた。狐は逃げようとして若者の頸筋くびすじに咬み付くが、堅くて歯も立たない。大きな尻尾を出して降参したけれども、構わずに焼き殺してしまった云云。先ずざっとこういう風に、昔話の方では取扱っているのである。ところが他の一方にまだ少し信じている土地では、伝説はずっともっともらしい形で残っている。同じ越後でも古志こし郡上條村の、大榎おおえのきの下へ出たバローンという化け物、これは狸であった。剛胆ごうたんな一青年が行ってこれを負い、逃げようとするのを無理につれて来て、仲間と共に殺して煮て食った。そうしたら食った者が皆死んでしまったなどと伝えられる。
 この二通りの話は今でも全国に竝び行なわれている。たとえば岩手県遠野の昔話には、老翁が夜分山畠小屋にいて鹿追いをしていると、向いの山に美しい娘が一人、両脇りょうわき瓢箪ひょうたんを抱えて現われ、
   おひょうらんこ・ひょうらんこ
   ししっぽひの爺さまさ行ってばッぼされたい
という歌をうたう。爺はおかしくなって「そんだら早く来ておんぶされ」というと、娘はすぐに飛んで来て爺さまの背に負さった。と思ったらすぐに消えてしまって、背中には大きな黄金の塊が乗っていた。そうして爺さまはたちまち長者になってしまう。津軽の昔話では山中の荒寺あれでらへ、元気な若者が化け物退治に行く。本堂の来迎柱らいごうばしらの下から化け物が出て来て「おぼさるおぼさる」としきりにいうので「そったらにおぼさりたがらおぼされ」と答えると、「そら負ぼさる」といって若者の背中へ、がらがらと何か来て乗っかった。それを夜が明けてから見ると残らず大判小判云々。こんなのもまたちっとも怖くはないようである。そうかと思うと羅城門らじょうもんの綱、美濃のわたり平季武たいらのすえたけ、さては太平記の大森彦七以来、負われて甚だしく物凄かった例もだんだんにある。それがことごとく負われようと呼びかけたというのは、前の話と無関係とは思われない。三州長篠の乗越峠などでは、夕方そこを通ると「んでくれ負んでくれ」と呼ぶ声がするといい、近村の某という男はそういわれると急に肩が重くなり、ふもとの寺の灯が見える処まで来ると、急に軽くなったと思ったというような話が、つい近年の実事としても噂せられる。阿波の徳島の市外に、オッパショ石と称して名所のごとくなっていたものも、やはりこの亜流であって、オッパショはすなわち「おんぶしよう」である。諸書の記述は区々になっているが、星合茂右衛門という勇士これにあい、さらば負うてやろうとかついで来ると、だんだんに重くなるので奇怪に思って、おのれと言いさま地上に投げ付けたら二つに割れた。それ以後オッパショといわなくなったという説もあって、久しい後まで路傍に転がっていた。その真偽はともあれ、怪談は普通勇士によって、過去へ送り込まれることになっているのである。

 ところが今一つ、諸国のオバケ話のおかしい特徴は、こうして出処進退を誤って退治せられたというやつが、暫くするとやがて又現われるという評判の立つことである。信州桔梗ききょうはら玄蕃丞げんばのじょう藝州比治げいしゅうひじ山のお三狐を始めとし、狐狸には殊にこの話が多いが、その他の化け物でも、岩見重太郎一流の壮快なる征服記が、数多く公表せられているにかかわらず、その割にはかれらの数が減少していない。これは恐らく風説が限地的のもので、互いに他を統一するだけの力がないためであろうが、又一つには昔話と伝説との対立併存へいそん、殊に退治譚が昔話の系統の方に、属している結果かと私は思っている。記録がこの問題を解釈する資料にならぬことは、この一点からでも主張し得られる。何となればその大部分が、われわれの耳に快い人間勝利の記念塔に他ならぬからである。たとえかすかであっても現実に感じられ、又黄昏の幻の中に描かれるものを尋ねなければ、到底化け物の由来の全面を知ることができない。それが今日はわざと忘れようという時代に臨んでいる。この点永久に不明でもよろしいと思う人以外、誰でも心せわしく国の隅々すみずみを、採訪しようとせずにはおられぬのである。
 しかもその仕事は相応そうおうに面倒である。相手が多くはわれわれとは話したがらぬ人たちで、その上に各自の経験は限られている。うかとある人ある土地の談話のみによって、結論を下そうとすれば必ず誤る。比較と総合が何よりも大切なのである。そこでその資料に僅かばかりの見聞を掲げておくのだが、今日北九州の海で働く人々が、現実に畏怖して居るウグメという怪は、船幽霊ふなゆうれいのことである。不知火湾内しらぬいわんないでも、海で死んだ者の亡魂がウグメに成るといい、一方に島や汽船に化けて漁夫を迷わすと言いながら、他の一方では「あか取り」を貸せといってついて来るとき、底を抜いて貸さぬと舟を沈められるなどと、まるで東国の海坊主と同じようなことを信じている。海上の妖魔は九州沖縄方面では、もとはシキ幽霊又はソコ幽霊と呼んでいた。夜分に水の色を真白にし、あるいはいろいろの幻を見せて、船乗りの肝を冷させていた。それがいつの間にかウグメと呼ばれるようになったのが、ウブメの間違いであることには証拠がある。つまり化け物は名前までが変幻出没していたのである。
 十七世紀の初頭になってロドリゲエスの日葡語典にっぽごてんにも、既にウブメは産婦の死して化したるものと信ぜらるる亡霊、しもにてはウグメというとあって、その語だけはもう生まれていた。これを海の怪とするに至ったもとは、出雲石見いわみあたりで今もあるように、この赤児を抱いた精霊が、浜やなぎさに現われることが多かったためで、海姫磯女も恐らく同一系統の、日本ではかなり注意せらるべき、大きな未解決の問題かと私たちは思っている。少しちがっているのは壱岐いき島のウーメが、青い火の玉で空を飛びまわるものと言われ、肥前諫早いさはや地方のオグメが、三度手を叩くと山の峰から飛んで来るというなどであるが、その他は大体に西国も東日本と同じに、陸上のウグメは子持ちの女性である。たとえば豊後直入なおいり郡のある寺の入口では、ウグメが現われて通行の人に児を抱いてくれと頼む。抱いてるとやがてその子が藁打槌わらうちつちであったり、石であったりするものだという。東松浦の山村でも、妊婦が死ぬとウグメに成るといい、抱いて遣ると赤児はいつも石塔になるというかと思うと、又一方にはウグメには何か欲しい物があるとき、頼めば授けてくれるとも伝えている。この点は殊に自分らのおもしろいと思う所で、ひろく古く尋ねて行くほど、これがむしろウグメ本来の使命であったかとさえ思われて来るのである。

一〇

 山口県の厚狭あさ郡あたりでは、同じ産女さんじょの怪をアカダカショ、又はコヲダカショともいって、古い道路の辻などへ晩方に出るものといっていた。やはりその名のごとく子を抱かせようとしたと思われる。化け物の目的が人を畏怖せしむるにあり、ないしは随筆家のいわゆる姑獲鳥うぶめのように、人間の赤児あかごに害を加えるにあるならば、いっそ手ぶらで現われた方が仕事がし易かったろうと思うのに、必ず自分の乳呑子ちのみごをかかえて、母子二人で出て来るというのには意味がなければならぬ。伊予の越智郡の某川は、折々死んだ児が包に入れて、棄ててあるという気味の悪い処だが、時として赤子の啼声なきごえが川に聴こえるのを、土地ではやはりウブメといっていた。夜ふけてこの堤を通行すると、そのウブメが出て両足にもつれるような感じのすることがある。そんな時には自分の草履をぬいで、それぞれこれがお前の親だよと投げてると、一時は啼き止むともいい、又子供だけで夜釣りなどに行く時は、このウブメは決して出て来ないともいっている。つまり赤児を啼かせることが、以前はウブメの怪の要件といってもよかったのである。二百年ばかりも前に出た百物語評判ひゃくものがたりひょうばんという書には、ウブメは産の上にて身まかりたりし女、その執心このものとなれり。その形腰より下は血に染み、その声オバレウオバレウと啼くと申し習わせりと記してある。越後のバリオンなどとだいぶ近くなって来るが、こういって母の方がくのでもあるまいから、やはり子をつれて出るというのが眼目であったろうと思う。
 ウブメに百人力を授かったという話は、かつて日本昔話集にも掲げておいた。頼まれて抱いているうちにだんだんと重くなったということは、今昔物語の中にも出ているが、これをじっと辛抱していたら、ウブメがかえって来て大いに感謝し、その礼に非常な腕力を授けてくれたという類の話が、今でもそちこちにあるのである。あるいは又莫大ばくだいの金銀財宝を、褒美ほうびに貰ったという話もある。そうかと聴いてわざわざウブメの赤児を抱きに、出かけて行く者もまああるまいけれども、とにかくにかれの真意は人を試みるにあって、キャッと言わせるだけが目的でなかったことは、近頃までも想像していた人が多かったのである。越後のバリオンなども三条附近で伝えているのは、負われようというのを承知して負うてると、それは重いものでかえってから見ると黄金のかめだったなどといい、これにも富と幸運との輸送者であったかのごとく、解している信仰はあったのである。肥後の天草島ではこれをもっと露骨に、カネノヌシなどと呼んでいる。大晦日おおみそかの真夜中に、武士のような姿をして現れる怪物で、これと力競べをして勝てば大金持となる。よってその名を金の主というとある。吾妻昔物語に出て居る北上川原きたかみかわらの化け物は、ある大胆な男が大刀を抜いてその列の一人をると、ぐゎらりと音がして地上に落ちこぼれたものは黄金珠玉であったというが、この話も古く各地方に行なわれている。つまりは怖れなく胆力のある者が、かねて目ざされて大福長者に取り立てられるために、こういう霊怪を以て試験せられたというまでの話であった。それをとうてい事実とは信じ得なかった人々が、いよいよ誇張しておかしい昔話を流布せしめただけでなく、一方にはその小部分の不思議な因縁の、普通の人にもさもありなんと思わるる個条を、大事に保存して独りで勝手にこわがっていたのである。こういう分裂はよく見ると川童にも山男にもある。信じて聴従する者には無限の恩恵を施す代りに、多数の不信者の「世の中にお化けなどがあるものか」という者は、毎度真っ青になって気を失うような目にあわせられた。それと同時に心の奥底でただ少しばかり、不思議は全くないとも言えぬと思っている人々には、双方二種の口碑こうひが、いつまでもチャームとなって残ったのである。お化けを前代信仰の零落した末期現象ということは、私の発明では無論ない。ただわれわれは外国の学者に妄信せず、自分の現象をけみし、自分の疑惑をくことを心がける必要を認めるのみである。こんな話ならばまだまだたくさんにあり、私は又大よそこれを順序立てて、ならべておこうという用意もある。ただ果して当世の読者の好奇心と忍耐とが、どれだけまで続くだろうかを問題とするのみである。

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