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「妖怪研究の結果(一名妖怪早わかり)」井上円了

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諸君しょくんよ、最初妖怪研究さいしょようかいけんきゅう着手ちゃくしゅしましたは、明治十七年のことにして、爾来材料じらいざいりょう拾集しゅうしゅうするに十年の星霜せいそうかさね、廿六年に至てはじめて其研究けんきゅう結果けっかおおやけにするようになりました。すなわ妖怪学講義録ようかいがくこうぎろくだいするものが、まさしく其結果けっかであります。此講義録は元来がんらい四十八号二十四冊より成りたるも、昨年之を合綴がってつして六大さつに致しました。其中には四百余種の妖怪事項ようかいじこうを集めて、之に一々学術上がくじゅつじょう説明せつめいを与え、古今民間ここんみんかんつたわれる妖怪は、大抵網羅だいたいもうらつくしたつもりであります。然るに其全部ぜんぶ紙数しすう二千六百頁にあまほどすこぶ浩瀚こうかんの大書籍しょせきなれば、世間よく之を通読つうどくするもの至てすくない。よりて余はここに其研究結果けんきゅうけっか一端いったんいだして、世人に紹介しょうかいすることに定めました。
世人多く妖怪研究ようかいけんきゅうをもってものずきかなぐさみか道楽どうらくの様に申すものがありますが、けっしてかかる次第ではありませぬ。畢竟ひっきょう此一事にたっと光陰こういんを十年以上ついやせしは、ふかく思う所ありてのことであります。く云うとにやら御釈迦様おしゃかさま気取きどる様で可笑おかしくかんずる人がありましょうけれども、余は幼少ようしょうの頃より何物なにものぞ、せいは何物ぞ、天災てんさいは何の為におこり、病患びょうかんは何の為に生ずるや等の問題もんだいつねに心にかかり、早晩そうばん之を研究けんきゅうしてみたいとのねんより、妖怪研究の志をおこす様になりました。人間は生きているに衣食住いしょくじゅうが一番大切たいせつであると申すけれども、衣食住いしょくじゅうよりモット大切のものは、安心あんしんすると云うことであります。いぬねこ動物どうぶつであるから、のむたりくうたりすれば其外に何等ののぞみもありませぬけれども、人間は動物より一段階級いちだんかいきゅうすすんで居りますから、飲み食い計りでは満足まんぞく致しませぬ。必ず衣食住の外に安心あんしんしたいとの一念が、常にうごき出してめることがむつい。如何に貧困ひんこんにして毎日の糊口ここうわるる様な身分みぶんでも、一日として安心をねがわざる者はありませぬ。れば犬や猫は飲食的動物いんしょくてきどうぶつ人間は安心的動物あんしんてきどうぶつ異名いめいを付けてもよろしからんか。兎に角人間にんげん獣類じゅうるいとの別は、安心あんしんを願うことを知ると知らざるとによりてさだむることが出来できます。
諸君はの道に太鼓たいこたたきて題目だいもくとなえ、手に御幣ごへいにぎりてトオカミをさけび、観音参詣かんのんさんけい老婆ろうばが一文ずつめたる金子を中店なかみせ売卜ばいぼくついやし、天理信仰てんりしんこうの病人が祖先伝来そせんでんらい財産ざいさん天輪王てんりんおう御水おみずかたむけ、或は成田なりた不動ふどう断食だんじきがんけ、或は川崎かわさき大師たいし日参にっさんちかいを立て、或は災天えんてんおかして高山こうざんじ、或は厳冬げんとうさいして冷水れいすいよくし、或は伊勢参宮いせさんぐう四国巡礼しこくじゅんれい、或は京参きょうまい大和廻やまとめぐり等は何の為であると考えますか。みな安心あんしんしたい為ではありませぬか。人間に安心する道をもとむる念のせつなること此通このとおりであります。今余が妖怪研究はかか切要せつようなる安心の道をこうずるものなれば、全く無用むようと申すことは出来ますまい。
民間みんかんにて一般に用いきたれる御水おみず御札おふだや或は禁厭まじないの類までも、皆人をして安心せしむるを目的もくてきとするに相違なけれども、わけ道理どうりも分らずに盲目的もうもくてきに之を用うるからして、一時の後はたちまち心が動き出してさらに大にまよう様になります。故に此の如きはしんの安心とは申し兼ねます。そうして真の安心は必ずわけ道理どうりの分った方法にるより外はありませぬ。ことに今より後は民間みんかん教育学問きょういくがくもん一体いったいに進でますから、訳道理の分らぬことを聞かしても、れも信ずるものがありますまい。夫故それゆえ今後こんごの安心は必ず道理どうりもとづき、学問がくもんかんがえて説明したるものでなければ、やくに立たぬと思います。是れが余が妖怪事項ようかいじこうを集めて其説明に着手ちゃくしゅしたる次第でありますから、あらかじめ御承知置きを願います。
段々沢山だんだんたくさんなる妖怪の種類しゅるいを集めて研究して見ると、色々面白おもしろい事が出て参ります。社会しゃかい内幕うちまく人情にんじょう秘密ひみつが皆分る様になりて来ます。言葉ことばえて申せば人の心を解剖かいぼうして見ることが出来ます。おもてにはたまの如くつきの如く立派りっぱ紳士然しんしぜんたる顔をよそおおて居る人が、其心の中をさぐり見るにつちの如くあくたの如く至て不潔ふけつなる魂情こんじょうかくれて居ることが分ります。実に可笑おかしくもあり、どくでもあり、らしくもあり、可哀かわいそうでもあります。左れば妖怪研究は如何にも不思議ふしぎなものであると考えます。是れは人心じんしん秘蔵ひぞうを開く唯一ゆいいつかぎと申して宜い。局外きょくがいの者に取ては妖怪などは社会現象中しゃかいげんしょうちゅうの一小事の様に見ゆれども、間口まぐちせまくてもおく千畳万畳敷せんじょうまんじょうじきでありて、実に広大無辺こうだいむへんの研究であります。なんと申しても人間の心全体こころぜんたいが、妖怪の幻灯仕掛げんとうじかけに出来て居りますから、一寸心ちょっとこころともしびてんじても、直ちに色々の妖怪があらわれて来ます。故に社会万般しゃかいぜんぱん現象げんしょう大抵皆たいていみな妖怪の現象と申しても差支さしつかえありますまい。諸君よ、ナント妖怪の学問は滅法界めっぽうかいもない広大こうだいの研究でありて、実におどろく計りではありませぬか。
て妖怪の種類をあげて申さば、四百五百乃至千以上もありて、おびただしきことでありますが、余は之を実怪じっかい虚怪きょかいとの二大類にだいるいに分けました。更に之を細別さいべつすれば、実怪じっかいの方には真怪しんかい仮怪かかいとの二種あり、虚怪きょかいの方には偽怪ぎかい誤怪ごかいとの二種ありて、偽怪ぎかいは一名人為的妖怪じんいてきようかいと云い、誤怪ごかいは一名偶然的妖怪ぐうぜんてきようかいと云い、仮怪かかいは一名自然的妖怪しぜんてきようかいと云い、真怪しんかいは一名超理的妖怪ちょうりてきようかいと云います。若し超理的ちょうりてき妖怪よりろんずればひと人間社会にんげんしゃかいのみならず、宇宙間うちゅうかん事々物々じじぶつぶつ一として妖怪ならざるなき程に至ります。天地すでに一大妖怪なれば、其間にげんずる森羅しんら諸象しょしょうもとより妖怪の現象げんしょうにして、一滴いってきの水も一片いっぺんくもも皆妖怪なりと申して宜い。ぜなれば超理的ちょうりてき妖怪とは不可思議不可知的ふかしぎふかちてき異名いめいでありて、事々物々若し其根源をきわむれば皆不可知的にする様になります。諸君は、かのわらうが如き春山しゅんざん景中けいちゅうに不可思議の霊光れいこうを浮べ、うたうが如き秋水しゅうすい声裏せいりに不可知的の妙味みょうみふくむを知りませぬか。誰人も其心中に一たび哲眼てつがんひらき来らば、見るもの聞くもの皆超理的真怪ちょうりてきしんかいとなりてあらわるる様になります。妖怪研究も此点まできわつくさなければ、しん面白味おもしろみは知れませぬ。然し世間の者に此様このようはなしをして聞かせても、所謂馬耳東風いわゆるばじとうふうたぐいにて、サッパリかんじませぬは実にこまったものであります。若ししいて聞かすればビックリ仰天ぎょうてんして逃出にげだす計りであります。夫れは其訳そのわけでありて、世間の者の妖怪とおもうている事柄ことがらは、余が所謂偽怪誤怪ぎかいごかい若くは仮怪かかいぎませぬから、仰天するのはあながち無理とは申されませぬ。依てしばら真怪しんかいはなしはさしき、もっぱ世間普通せけんふつう偽怪誤怪ぎかいごかいに関する話を致しましょう。
偽怪誤怪ぎかいごかいの話をする前に、一応其説明を与えなければなりますまい。先ず偽怪ぎかいとは人の工夫くふうより色々つくり出したる妖怪にして、或は利欲りよくの為、或は政略せいりゃくの為、或は虚名きょめいの為に妖怪ようかいように云いらし、針小しんしょうの妖怪を棒大ぼうだいべ立て、一犬虚いっけんきょほえ万犬実ばんけんじつを伝うるなどの類は、皆偽怪と申すものであります。世の中には此種類もっとも多けれども、余りたくみに出来たる分は、偽怪ぎかいばけかわあらわさずに、真物ほんものとなりてつたわりて居ります。次に誤怪ごかいとは妖怪にあらざるものをあやまみとめて妖怪となせるの類にして、暗夜あんや木骨ぼくこつおにと認め、路上ろじょうなわへびと誤るも、其一例いちれいであります。次に仮怪かかいとは之に物理的妖怪ぶつりてきようかい心理的妖怪しんりてきようかいの二種ありて、物理的妖怪ぶつりてきようかいとは狐火鬼火きつねびおにびの類をいい、心理的妖怪しんりてきようかいとは幽霊狐憑ゆうれいきつねつきの類を申します。次に真怪しんかいの事は既に説明したから、再びぶるに及びませぬ。以上四種の中偽怪仮怪真怪ぎかいかかいしんかい<をもって世界の三大怪さんだいかいと致します。其時は誤怪ごかい偽怪ぎかいの中に合て別に立てませぬ。学問上がくもんじょうより世界を見る時は、人間界にんげんかい自然界しぜんかい絶対界ぜったいかいの三種に分けますが、此三種は正く余が所謂三大怪さんだいかいと合する分類ぶんるいであります。即ち偽怪ぎかい人間界にんげんかいの妖怪、仮怪かかい自然界しぜんかいの妖怪、真怪しんかい絶対界ぜったいかいの妖怪であります。故に偽怪ぎかいを研究するときは社会人情しゃかいにんじょう秘密ひみつを知ることを得、仮怪かかいを研究するときは万有自然ばんゆうしぜん秘密ひみつくことを得、真怪しんかいを研究するときは宇宙絶対うちゅうぜったい秘密ひみつさとることを得る訳であります。諸君が若し政治家せいじかにならんと欲せば、必ずず偽怪を研究し、教育家きょういくかにならんと欲せば、必ずず仮怪を研究し、宗教家しゅうきょうかにならんと欲せば、必ず先ず真怪を研究せられよ。是れ余が諸君に忠告ちゅうこくする所であります。
余は先年来日本国内を巡視じゅんしして、いた処民間ところみんかんの妖怪を聞くが儘にあつしるし、此に其起原きげんを考うるに、総体そうたいの七分は支那伝来しなでんらい、二分は印度伝来いんどでんらいのこりの一分は日本固有にほんこゆうの妖怪の様に見えます。又其種類しゅるいを考うるに、什中の五は偽怪ぎかい、什中の三は誤怪ごかい、残りの二分丈は仮怪かかい割合わりあいとなります。但し世間には仮怪最も多き様でありますけれども、其中には偽怪誤怪の混入こんにゅうせる例が沢山でありますから、ウッカリ信ずることは出来ませぬ。要するに数種の妖怪中偽怪誤怪ぎかいごかいの類が最も多いに相違ありませぬ。果たして然らば世間せけんの者は妖怪の贋物にせものばかりをかつぎ出し、真物ほんものは却って知らずに居ります。ことわざ盲者めくら千人に明者めあき一人とは、尤もの格言かくげんではありませぬか。
斯様かように世の中には妖怪の贋物にせもの計り流行して居る原因げんいんを尋るに、全く人の奇情きじょう迷心めいしんとの二が製造場せいぞうばとなりて、不断たえず種々の妖怪をつくり出す故であります。奇情きじょうとはだれ人も有する好奇心こうきしんの事にして、何にても見慣みなれず聞慣ききなれぬめずらしき事あれば、之を大層たいそうらしく云い立てて、人をおどろかそうとする一種の癖心へきしんのことであります。迷心めいしんとは安心あんしん反対はんたいにして、物事ものごと道理どうりくらく、自分じぶんの思う様にかない時に、色々の妄想もうそうを起して迷い出すことであります。人に此迷心があるから、安心することが出来ず、安心が出来ぬから、益々ますます迷う様になります。奇情きじょうの方は稍狂気きちがいじみて居るけれども、左程がいにはならず、且つおも偽怪ぎかいのみに関係かんけいして居るから、八ヶ間敷論ましくろんずるにも及びませぬが、迷心めいしんの方は偽怪にも誤怪にも仮怪にも関係し、一人の利害りがいは勿論、国家こっか盛衰せいすいにも関係して居ることなれば、是れ計りは其儘に見捨みすく訳には参りませぬ。むし重箱じゅうばこすみ楊子ようじでほじくる様に、すみからすみまで迷心の大掃除おおそうじょを致し、以て人をして安心させてやりたいものであります。余は之を迷信退治めいしんたいじと名けます。諸君よ、今日は文明日新ぶんめいにっしんとか教育普及きょういくふきゅうとか唱えながら、迷信めいしんくも依然いぜんとして愚民ぐみん心天しんてんとざして居るのは、何と申してよろしからんか、世の天狗てんぐ気取きどって居る学者がくしゃ教育者きょういくかに御たずね申して見たいではありませぬか。麻疹はしかの流行にさいし入口に鎮西八郎為朝宿ちんぜいはちろうためともやどだいして、吾家わがいえには病気入ること出来ぬものと信じ居るが如き、隣家りんか失火しっかに際し主人しゅじん自ら鎮火ちんか祈祷きとうを行い、遂に其家と共にぬに至りたるが如き、学校建築がっこうけんちくに際し村会そんかいの第一問題は、鬼門方位きもんほうい吉凶きっきょうするが如き、じつにあきれてたる次第ではありませぬか。ゆえなくして医士いし取換とりかえ、故なくして奉公ほうこう見合みあわせ、故なくして結婚けっこんことわり、故なくして親戚しんせき絶交ぜっこうし、故なくしてつま離縁りえんし、故なくして住居じゅうきょてんじ、故なくして家屋やおくこぼち、故なくして旅行りょこうめ、故なくして約束やくそくやぶる等、多くは是れ迷信めいしんより起りて居ります。諸君よ、ナント迷信めいしんがいは此に至てきわまれりと云わなければなりますまい。之を黙々もくもくし置て、学者がくしゃ教育者きょういくか本分ほんぶんが立つでありましょうか。人は兎にあれ角にあれ、余はあくまで迷信退治めいしんたいじを一身ににんじて、人心の妄雲もううんはらり、真怪しんかい明月めいげつひらあらわし、以て光明こうみょう新天地しんてんちつくり出さんことを日頃熱望ひごろねつぼうの余り、はからずも妖怪研究に着手ちゃくしゅすることになりました。
くして多年たねん研究の結果、迷信めいしんは一片の迷心めいしんより起るは申す迄もなく、迷心は畢竟ひっきょうするに吉凶禍福きっきょうかふくの道理にくらきと、世態人情せたいにんじょうの如くならざるとの二者より起ると考えます。言葉をえて申さば知識ちしきとぼしきと、意力いりょくよわきとに起因きいんすと云うことであります。已に迷心はとの二者の不具ふぐ、若くは病体びょうたいより起ると知る以上は、之に相応そうおうくすりを与えて治療ちりょうほどこさば、たちま知徳健全ちとくけんぜんの人となりて、安楽あんらく心地しんちいたることが出来るに相違そういありませぬ。凡そ人一たびまよえば必ず其心をくるしめ、愈々迷えば益々苦むは、人情にんじょう常則じょうそくなれば、安心の要道ようどうは其まよいを去るより外にはありませぬ。若し一たび其迷を去れば、苦境くきょうは一変して至楽しらく天国てんごくとなり、百難ひゃくなん四散しさんして無憂むゆう世界せかいとなる。仏教の所謂娑婆即寂光しゃばそくじゃっこうとは、此事ならんと思わるる程であります。若しさらに進て其心地しんち真怪しんかい別天地べってんちを開き来らば、上は日月星辰じつげつせいしんより下は山川草木さんせんそうもくに至る迄、皆不可思議ふかしぎの光明をはなち、春花秋月しゅんかしゅうげつは勿論、雨夕風晨猶うせきふうしんなおよく最妙極楽さいみょうごくらく光景こうけいあらわし、一望いちぼう忽ち快哉かいさいと呼び、手のい足のむを知らざるの妙境みょうきょうに達することを得るは、実に不思議ふしぎ中の不思議ではありませぬか。世にかかる不思議のあるを知らずして、いたずらに生死しょうじの門にまよ禍福かふくの路にまどうは、之を評して愚中ぐちゅうと申さなければなりますぬ。豈哀あにかなしき次第ではありませぬか。
今日愚民のとの不具ふぐりょうする方法は、宗教しゅうきょう教育きょういくとの二道でありて、教育きょういく知識ちしきを進むるを目的もくてきとし、宗教しゅうきょう惑情わくじょうを定むるを本意ほんいとする故、此二道ならおこなわるれば、自然しぜん迷信めいしん一掃いっそうすることが出来る道理でありますけれども、其方法は内科ないか治療ちりょうの如く、漸々徐々ぜんぜんじょじょに其結果けっかしめすものなれば、あたかくつへだててあしくが如くに思われ、何となく迂遠まわりとおき様に感じられます。今迷信の弊害へいがい旦夕たんせきせまる有様なれば、外科げか治療ちりょうの如く、即時直接そくじちょくせつかゆき処に手をとどかする様な方法がありそうに考えます。世間せけんの学者は兎角たかきを見てひくきをわすれ、ちかきをててとおきをるの風ありて、迷信妖怪めいしんようかいの如きは大に実際上じっさいじょう利害りがいあるにもかかわらず、斯る卑近ひきんの事に心を用うるは、学者の体面たいめんけがす様に思て居ります。又一般の教育者きょういくしゃ読本算術どくほんさんじゅつ日課にっかさずくるに汲々きゅうきゅうとして、他をかえりみるのいとまなきが如く、たま閑隙かんげきありて講学こうがくこころざすものは、左程実際じっさい急切きゅうせつ関係かんけいもなきヘルバルト氏の学理がくり探求たんきゅうするを以て、教育家の能事のうじ終れりと信じ、愚民迷信ぐみんめいしん熱度ねつど四十度以上に超過ちょうかせるも、更に知らざるものの如くに気楽をかまえて居ります。又普通ふつう宗教家しゅうきょうか木魚もくぎょらして伽藍がらんを守り、死人しにんを迎えて引導いんどうを渡すを以て、僧家そうか本分ほんぶんを尽くせりと思い、甚きに至ては檀家だんか機嫌きげんを取りて、受納じゅのうふやさんことのみに心を用うるが如き淺間敷あさましきものもあります。偶々学事たまたまがくじ篤志とくしのものあれば、三界唯心さんがいゆいしんとか一心三観いちしんさんがんとか、高尚こうしょう理屈りくつ計りをとなえ、倶舎くしゃ三年唯識ゆいしき八年などと気永きながの事計りを云い立てて、更に時弊じへいに応じて教義を調合ちょうごうする匙加減さじかげんを知らざる風情ふぜいであります。故に近年教学きょうがく共に振起勃興しんきぼっこうせるにもかかわらず、民間みんかんくだりて見れば積年せきねん迷信めいしん依然として其勢力せいりょくたくましうし、以て教育の進路しんろさえぎり、宗教の改良かいりょうさまたぐること、日一日より甚くなる様にかんじます。是れひと国家こっかの為のみならず、教学きょうがくの為に残念至極ざんねんしごくのことであります。余はかつて古人のを思い出し
   尽 日 尋 春 不じんじつはるをたずねてはるをみず    芒 鞋 踏 遍 隴 頭 雲ぼうあいふみあまねしろうとうのくも
   帰 来 笑 撚 梅 花かえりきたりてわらうてばいかをひねりてかげば    春 在 枝 頭 已 十 分はるしとうにあるすでにじゅうぶん
とある様に今日の学者教育家宗教家がくしゃきょういくかしゅうきょうかは、大抵たいてい皆近く枝頭しとうの春にそむきて、遠く隴頭ろうとうの雲をむの類にあらざるかをうたがい、独り自ら嘆息たんそくして居る次第であります。今日の教育宗教の状態ありさまは唯今ぶる通りの事情じじょうでありますから、此二道に依て迷信めいしん退治たいじするは、容易よういの事にあらずと考え、余は自ら一工夫いちくふうめぐらし、むし外科的医法げかてきいほうによりて即席療治そくせきりょうじを施さんと欲し、妖怪研究ようかいけんきゅう看板かんばんを掲げ、妖怪講義を発行はっこうして世におおやけにすることに致しました。今其要点ようてんを一口につまんで申せば、余以為おもえらく世人が迷心惑情めいしんわくじょうがたきは、全く天運てんうんと云える一大怪物が目前もくぜんかかりて、何程なにほど己れの心をたずねてみても、サッパリわからぬ故であります。けだ天運てんうんとは生死しょうじ常ならず、禍福かふく定りなく、世事意せじいの如くならざる一事にして、是れぞ宇宙うちゅうの最大怪物と申してよろしい。此怪物かいぶつが実に迷信めいしんのバクテリヤにして、之に消毒法しょうどくほうを施すにあらざれば、到底とうてい世に迷信めいしん痕跡こんせきつことはむつしいと考えます。妖怪研究の必要は全く此点このてんにあることは、諸君も已に御分りでありましょう。たとえて申さば妖怪学ようかいがくうは迷信のバクテリヤをころ消毒剤しょうどくざいでありて、余は之を専売せんばいする薬店やくてんでありますから、此病にかかりたる人は一服用いて其効験こうけんこころみられたきものであります。
おいて子にわかようにして父をうしない、妻は乳児にゅうじてて去り、夫は家産かさんやぶりて死し、昨年は天災てんさいくるしめられ、本年は病患びょうかんなやまされ、盗難火難とうなんかなん水災風災すいさいふうさい、相継で至るときは、非凡ひぼん豪傑賢人ごうけつけんじんにあらざるよりは、まよいを起さざるものけだし一人もなかるべしと思います。生死禍福しょうじかふくの門に迷わざることは、実に難中なんちゅう至難しなんであります。然しながらまよやすきものは亦さとやすきものにして、若し其人の病に相応せる薬法やくほうを以て之にとうずれば、積年固結せきねんこけつせる惑病迷疾わくびょうめいしつも、一朝にしてくもとなりてさんじ、けむりとなりてきゆることができます。ぎゃくするにはキニーネざいくものなく、迷信めいしんを医するには妖怪学ようかいがくに若くものなしとは、余が証券印紙付しょうけんいんしづきにて保障ほしょうする所であります。畢竟ひっきょうするに人をして一たび天運てんうんの何たるをあきらかに了解りょうかいせしむれば、生死しょうじ迷門めいもんも、禍福かふくの暗路あんろも、容易たやす通過つうかし得る道理でありますから、余は此に一寸一口天運ひとくちてんうんの何たるを述べようと考えます。
天運てんうんは規則なきが如くにして規則きそくあり、定りなきが如くにして定りありて、あたかも夏はあつく、冬はさむいと同じき道理でありますから、決してまようにもあやしむにも、なげくにもかなしむにも及びませぬ。およそ天の道は公平無私こうへいむしにして、人間の如く偏頗へんぱ私心ししんあるものではありませぬから、人の方で自分勝手じぶんかってに願うたいのりだとて、天はそれが為に規則きそくげる様なことは決して致しませぬ。已に公平無私こうへいむしなれば、何事も権衡平均けんこうへいきんたもつ様にかたむくが、天道てんどう常性じょうせいであります。たかきものは之をおさえ、ひくきものは之をげ、よわきものは之をたすけ、つよきものは之をしりぞけ、るものは之をくっし、ちぢむものは之をばすが、所謂天道てんどう平均主義へいきんしゅぎであります。あたか鉄道てつどう敷設ふせつに高き処は之をけずり、ひくき処は之をうずめ、成るべく地平ちへいたもたんとすることにて居ります。故に余は天道てんどう鉄道てつどうの如きかと申します。古来の諺にも人間万事塞翁馬にんげんばんじさいおうのうまとあるが如く、天道は決して一人の者に幸福こうふくのみを与うることなく、又不幸ふこうのみを下すことなく、幸福の後には不幸あり、不幸の後には幸福ありて、其循環じゅんかんの次第は風雨ふううの後には晴天せいてんあり、晴天の後には風雨あるが如く、豊年ほうねんの後には凶年きょうねんあり、凶年の後には豊年あるが如く、誠に天道てんどう公平無私こうへいむしにして、しか平均権衡へいきんけんこううしなわざるは感服かんぷくする計りであります。我々などの或時は晨起はやおきし、或時は朝寝あさねし、或は忽然こつぜんとしていかり、或は卒爾そつじとしてよろこび、気儘に規則きそくおかし、勝手に約束やくそくやぶるものとは実に天地の相違ではありませぬか。此道理をよくよくきわめて見れば、世に真の不幸者ふこうしゃなく、真の罹災者りさいしゃなく、長き年月としつきの間に吉凶禍福きっきょうかふく差引さしひきを立れば、左程のそんもなければ、とくもないことが分ります。然るに一たび不幸にえば、再三之をかさねんとし、一人天災てんさいにかかれば、一家ことごとく之をかからんとする傾向けいこうあるは、是れ多くは天の然らしむる所にあらずして、自らまねく所であります。凡そ天災不幸てんさいふこう弱点じゃくてんに付け込ものなれば、余り災難さいなんおそれて迷心めいしん増長ぞうちょうせしむれば、益々種々の災難が四方より推しかけて来るものであります。ことわざにも疑心暗鬼ぎしんあんきを生ずと云えるが如く、多くの災難不幸さいなんふこうは之を疑懼ぎくするより起るに相違ありませぬ。軽症けいしょうの病が重患じゅうかんとなり、くべき病人がにわかするが如きは、多くは自分の迷心よりまねく所であります。一家の衰微滅亡すいびめつぼう矢張やはり天の然らしむる所にあらずして、自らまねく所なるは、之にじゅんじて知ることが出来ます。
世に不幸の種類しゅるい至て多きも、不幸中の不幸は死の一事であります。死は天道てんどう常則じょうそくにして、我人の免るべからざる所なれども、天寿てんじゅを全うすること能わざるは、多く其人自らまねく所なることは、実際じっさいに照して明瞭めいりょうであります。死已しすでに然らば、他は云わずとも分りましょう。斯る道理どうりでありますから、いやしくも人たるものは天道天運てんどうてんうんの規則をあきらかにし、生死禍福しょうじかふくの門路をきわめ、百難千死ひゃくなんせんしおかしても、決して迷情めいじょうを動かさず、疑念ぎねんを起さず、泰然たいぜんとして一心を不動ふどうの地に置き、ふたた生死路頭しょうじろとう迷子まよいごとならざる様に平素研究へいそけんきゅうし置くは、此世の浮橋うきばしわたるに肝要かんよう中の肝要であります。
一家の建築けんちくには小刀細工こがたなざいくではに合わず、大店おおたな商法しょうほうには目子勘定めのこかんじょうではやくに立たず、生死の迷心めいしんを定むるには、人相方位にんそうほういの如き小刀細工や、売卜禁厭ばいぼくまじないの如き目子勘定では到底とうてい六ヶ敷い。必ずや天地の大道だいどうもとづき、道理どうり根源こんげんを明かにせなければなりませぬ。誰れも富士山ふじさんに登りて始て箱根はこねひくきを知り、地球図を見て始て日本のしょうなるをおぼゆるが如く、天地てんち大道だいどうきわめて、始て迷信めいしんたのむに足らざるを了解りょうかいする様になります。故に我人のたのむべくるべく安心あんしんすべきものは、天地の大道をはなれて、決して其ほかに求むることは出来ませぬ。諸君若し苟も迷信めいしんの恃むに足らざるを知らば、速に去りて妖怪ようかい学林がくりんに遊び以て天地の大道を講究こうきゅうせよ。諸君若し苟も安心あんしんの求むべきを知らば、忽ち来りて余が門庭もんていに入り、以て生死の迷路めいろ看破かんぱせよ。天堂てんどう近きにあり楽園らくえん遠きにあらず。唯生死禍福の迷雲妄霧めいうんもうむ一掃いっそうして、心天しんてん高き処に真月しんげつを仰ぐの一事、よく眼前咫尺がんぜんしせき天堂楽園てんどうらくえんを開くことが出来ます。諸君決して此事をうたがう勿れ。若し之を疑わば、請う之を神仏しんぶつに問え。神仏若し答えずんば之を先聖せんせいに問え。先聖尚お告げずんば之を後人こうじんに問え。諸君は必ず先聖後聖其揆一せんせいこうせいそのきいちなることを知らん。唯余が諸君にちかう所は古人こじん我をあざむかず、我亦他人をあざむかざることであります。
一人の安逸あんいつは一国の安逸であり、一家の快楽かいらくは一社会の快楽であります。妖怪ようかいの研究よく生死路頭しょうじろとう迷人禍福院内めいじんかふくいんない病客びょうかくをして最楽至安さいらくしあんの天地にあそばしむるを得ば、其社会国家しゃかいこっかえきすることは申す迄もありませぬ。古来英雄えいゆう事跡じせきを見るに、皆生死禍福に痴情ちじょうを起さず、方寸城中ほうすんじょうちゅう一点の迷塵めいじんとどめざるものにかぎります。非凡ひぼん凡人ぼんぷとの別、英雄えいゆう愚俗ぐぞくとのは、迷心めいしんを有すると有せざるとによりて分ります。故に人若し英雄えいゆうとならんと欲せば、必ず先ず迷信めいしんうを一定する道をこうじなければなりませぬ。如何に平々凡々へいへいぼんぼんの人物にても、一たび迷信をひるがえして精神せいしん安定あんていするを得ば、意外いがい事業じぎょう大成たいせいし得るは必然ひつぜん道理どうりであります。よし政治家せいじかになるにも実業家じつぎょうかになるにも、軍人ぐんじんになるにも役人やくにんになるにも、此大決心だいけっしんけて居て些々ささたる吉凶禍福きっきょうかふくに心をうばわるる様では、平々凡々のはいとなりてつるより外はありませぬ。果たして然らば妖怪学の研究は一人一家の幸福こうふくのみならず、国家社会の繁盛はんえいを来すもととなることは、諸君に於ても十分分りましたであろうと考えます。
以上は余り妖怪学ようかいがく効能こうのうを述べ過ぎる様に見えて、売薬屋ばいやくや効能書こうのうがきの様に思う人もありましょうけれども、余が目的もくてきは最初よりいたづらに閑人かんじん道楽どうらくの積りで始めたる訳ではなく、全く愚民ぐみん迷信めいしん安定あんていせんとする本心ほんしんより出でたるものなれば、世人に其趣意しゅい誤解ごかいせざる様に注意ちゅういを願いたき一念より、此の如く効能を述べたる次第であります。其効能こうのうの果して名実相応めいじつそうおうするや否は、自分免許じぶんめんきょ保証ほしょうでは人の承知せざるおそれあれば、諸君の研究の結果けっかまち判定はんていすることに致しましょう。
余は此一事につき多年焦慮苦心たねんしょうりょくしん結果空けっかむなしからず。頃宮内大臣ころくないだいじんより陛下へいか御前ごぜん奉呈ほうていせりとの御沙汰ごさたを蒙り、不肖の光栄満身こうえいまんしんに余り、感泣措かんきゅうおく所を知らざる程でありました。又引続ひきつづきて文部大臣もんぶだいじんより過分かぶん賛辞さんじたまわるのえいを得、其喜亦将にあふれんとする計りでありました。かか栄誉えいよたいしては今より一層せいはげまししんらし、以て益々妖怪の蘊奥うんおうを究め、宇宙うちゅう玄門げんもんを開き、天地の大道を明らかにし、生死の迷雲めいうんを払い、広く世人をして歓天楽地かんてんらくちの間に逍遥しょうようせしめ、永く国家こっかをして金城鉄壁きんじょうてっぺきの上に安座あんざせしむることを且ついのり且つちかう所であります。諸君にして若しよく此微衷びちゅうを知らば、余に取りてはまことねがう所のさいわいであります。

  • :妖怪研究の結果(一名妖怪早わかり)
  • :井上円了
  • :『妖怪研究の結果 一名妖怪早わかり』 井上円了 哲学館 1897
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